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現代社会においても依然持っているべき真の自己保存術
我々は権威や常識にではなく、いま一度、自然環境に服従したい
二十一世紀、今日現在この日本に絶対君主はおらず、伝統的な道徳によるしがらみも鳴りを潜め、最小単位の共同体である家族にも家父長はいない。かつての社会的制約は少なからず取り払われ、今の人間には自らの意思によって行動を決定する、個人の自由が確保されている……とされている。
ただし、一方でそれは資本主義システムの自己責任という名のもと、頼るべき集団も取り払われてしまったことを意味する。個人の自由は同時に、孤立感や無力感を浮き彫りにする重荷となるのだ。
そもそも人間は、自然環境から与えられた条件に絶対服従して生きてきた動物の一種だ。本質的には服従することを求め、そこで得たストレスを動力源にしているとさえ言える。つまりは自己保存を揺るがすストレスから逃れるために、自己保存の安定を求めて食べ、寝て、与えられた条件を克服しようと進化してきたのだ。
冒頭の話に戻ると、今、そんな人間がいつしか自然環境から自由となり、前近代的な社会制約からも自由となって、ついには個人の自由を獲得してしまった。こういった状況下で、人間はどのように動くか。
権威を称え、それに服従しようとする。自己保存を揺るがすストレスがなくなった途端に、今度は自由からの逃避を図るのである。
二十一世紀の今日現在、もはや絶対的な自然環境や君主が存在しない以上、服従先は常に流動的だ。それは強気にそれっぽいことを言う政治家であったり、大多数と仲良くなれる常識であったり、とにかく隣国や奇人変人といった分かりやすい対象を敵とみなして集団意識を得る、というのが人気の服従法となっている。近年ではこのような権威主義的性格を熟知する一部エリートによって、服従先を巧みに操作する商売も盛んである。
さて、これで“自給自足”という言葉になんとなく惹かれてしまう人種が、自身の将来に対するただぼんやりとした不安を感じてしまう原因がわかった。いまなお人間が服従なしで生きられない動物なら、見せかけの権威でも常識でもなく、いま一度自然環境に服従したい。
写真/降旗俊明
※この記事は2017年12月発売『Fielder vol.37』に掲載されたものです。