【vol.43】山と熊と田

長い間通っていたアフリカの撮影がようやく本として形にまとめ終わった頃から、体の奥底から写真はある程度やりきったかなと思うようになっていた。

雑誌媒体が衰退していく中、自分も読まないような興味のない雑誌に日本との関係性ばかりを気にする編集者を説得して、戦争写真を売り込んでいく行為にもうんざりしていた。それでも糸口を見つけようと、次のテーマを探しにメキシコで起こっている麻薬戦争の撮影を開始した。 

アメリカ国境近くの町では住民を巻き込んだギャング同士の抗争で、毎日のように酷い状態の遺体が幹線道路に打ち捨てられていた。

警察無線を傍受して現場に急行する地元新聞社に同行させてもらいながら、麻薬と金をテコにして暴発した人間の欲望と暴力の極限の形みたいなものがうまく自分自身で咀嚼できず、撮影の切り口が全く見出せなかった。地元新聞社で働く記者の2人は、既に何者かによって暗殺されていた。

そんな時に、福島の原発が2回目の白い煙を上げて爆発した映像を見た。ともかく日本に帰って自分の家族に会いたいと思った。

メキシコのように理由もなく突然、家族を無残に殺されることもなく、今回の津波にも流されていない。まだ自分には会いたいと思う家族が残されていて、会うことができる。日本へ戻り家族の無事を確かめ、当たり前の営為が愛おしく感じた。

東北に向かう準備をしながら現地を取材している山形出身の仲間のライターに連絡すると、新潟と山形の県境にある山熊田という馴染みのマタギ村までガソリンを調達しているという話を聞いた。初めて山熊田の名前を聞いたのはその時だった。ガソリンだけではなく、ガソリンを運ぶ燃料携行缶さえも手に入らないと連絡を受け、急いで地震の余波を受けていない離島の八丈島から大量の燃料缶を現地に送った。

東北の撮影を終えて家に戻ると、物心共にメキシコで長年撮影の手助けをしてくれた、麻薬組織関連の取材に励むジャーナリストの仲間が警察に捕まったと知った。とりあえずの金銭をメキシコの彼の家族に送る手続きをしながら、一方でどこか肉体的に反応できず、感覚が磨耗して行動できない自分がいた。写真を軸にして自分の熱量だけを糧に生きてきた青春時代みたいなものに終焉がきたと、受け入れる時期が来たのだと思った。

そんな折、前述のマタギ村・山熊田で雪解けが始まった春に、冬眠明けの熊の巻狩りに参加した。

麓から続く道は山熊田で行き止まり、背後には広大な山深いブナ林が続いていた。19家族、48人が住む村にはジュースの自動販売機が一台あるだけ。民俗学者・宮本常一が書いた『忘れられた日本人』のような原風景がそこには残っていた。普段、海に囲まれた八丈島の風景で過ごしている目にはとても新鮮で、村の名の通り、豪雪地帯で暮らす彼らの生活は山・熊・田で成り立っている。

考えてみれば自分の足元にある日本をじっくりと旅をするのも、随分と久しぶりのことだった。埃をかぶったカメラを持ち出して、撮影を口実にリハビリのように自分のあり様みたいなものをもう一度、見直していきたかった。撮影するというよりは一升瓶を下げて、懐かしい人々に会いにいくという感じに近いかもしれない。

僕が知っている日本語ではほとんどない、彼らの喋る言葉。彼らと一緒に山にいる時は何を言っているかわからずオロオロしてしまい「何やってんだー」と言われて苦笑いすることもよくある。

女衆は集落に残り、マタギと呼ばれる男衆はブナの森の中へ入り込んで熊を斃す。

追い求めていた熊の倒れた姿を見るたびに、この瞬間生きているんだなという確かな手応えと、いずれ自分にも訪れる不確かな死を想う。

自然の中へ奥深くはいりこみ、命のやり取りをしながら静かに自身と向き合う。

遠い昔から続けられて来た彼らの営為には強い生と死の手触りを感じた。

昨年、メキシコの仲間が7年ぶりにようやく刑務所から出て来た。久しぶりにメキシコを再訪し、彼と互いの無事を喜んだ。なぜ警察に捕まったのか、彼は最後まで本当のことは言わなかったが、刑務所で筋トレばかりして異様に胸板が厚くなった彼の姿を見ながら、そんなことはどうでもいいなと思った。

朝、山に入る前にいつも、おばあちゃんが「気をつけてね、熊さ獲ってこい」と3粒の鬼豆(炒った大豆)をそっと手に乗せてくれる。

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を今年2月に刊行。