【Vol.27】日本探検 ーちょっとした意識と技術で身近な場所が楽しくなるー

今忘れ去られようとしている歴史的現場を探る
藪山行術

本誌の名物企画である登山ガイド“ヤブ山三ちゃん”による読図行。今回は歴史的書物にも「行くには道険しく、人の行ける所ではない」やら「予二人をして桃花源頭を極め尽くせなかった」と記されるなど、要はかつての人々がことごとく敗退してきた秘境の地へ出向いた。

登山ガイド 三上浩文

本誌お馴染みの登山ガイド。氏の読図技術は登山ガイド界でも屈指で、豊富な山の知識とともに、日々山の歴史を解き明かしている。サバイバル登山家も、今どき珍しい本物の山ヤと称している。
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かつて柳沢兵が隠れ蓑とした餓鬼の嗌のランドスケープ

山梨県の地理的歴史書「甲斐国志」には、餓鬼のには7尺(約2m)の大きな岩があり、石の下は居住できるような場所があるという伝えが記されていた。まさにこの場所が核心部である。


あの柳沢吉保を起点となるドラマチックな現場とは?

同山行のスタート地点となったのは山梨県北杜市柳澤。この「やなぎさわ」という地名は、かつてこの地域一帯の指導的立場にあった柳沢氏に由来する。柳沢氏と言えば、戦国時代には武田氏に仕え、武田氏滅亡後は徳川氏翼下として躍進。五代将軍・徳川綱吉時代には、柳沢吉保がその片腕として大老格(幕臣最高位)に至ったのは有名な話だ。大奥、水戸黄門、忠臣蔵……。多くの人気ドラマや演目で“悪役”の立場となるだけに、世間一般的な知名度も抜群だろう(実際は真面目で学問に通じる人物だったと言われている)。

ただ、実際にこうして柳沢氏発祥の地へ足を運んでみると、その面影はほとんどない。現在、柳沢氏とこの地を結びつけるものは同氏の開基と伝えられる柳沢寺くらいで、それも残されているのは石幢や霊塔の類。果たして今回の三ちゃんは何を目指しているのだろうか。答えは吉保が甲府城の主となった際、荻生徂徠(おぎゅうそらい)、田中省吾ら学者に甲斐国の見聞調査を命じて完成させた紀行文「風流使者記」「峡中紀行」の中にあった。

柳沢氏の歴史を振り返ると、武田氏翼下時代に一族存亡を賭けた事件が起こっている。天正10年(1582年)、武田勝頼が織田信長に攻め入られた際に、柳沢兵部信俊は織田勢による残党狩りを避けようと、一族とともに石空川(いしうとろかわ)の上流奥地へ身を隠したというのだ。近隣の村人たちには柳沢一族を救ったこの地が「餓鬼の(がきののど)」として伝えられており、信俊の孫である吉保がこの地の特定に乗り出したというわけである。

さて、荻生らが記した峡中紀行を見ると、「餓鬼の」までの道のりはあまりに険しく悪いため、ピークからその地を見るに留めて明白な特定はできなかったとある。簡単にその道筋を推測すると、柳澤から石空川を南西へ遡行し、山間の曲がりくねった道を行くと、ワサビ沢に出る。そこを進むと「第一の関」と呼ばれる崖が出てくるので高巻きし、進路を左にとって険しい嶺を越え、落石だらけのガレた沢に出たという。峡中紀行ではここから周囲の水や石の描写が入り、突然「餓鬼のを見る」という見出しとともに「左の側が探し求めてきた餓鬼のである」と続くが、おそらくこのガレた沢を登り、主稜線に取り付いたあたりで、“左の側”にある隣の沢の上を見たのではないかと考えられる。最終的に一行は尾根の小ピークへたどり着き、「餓鬼の」を見渡して敗退している。

※国土地理院の電子地形図25000を掲載

峡中紀行に記された餓鬼の嗌への道程とは
地形図の北側に当時の柳澤村があり、石空川を南西へ遡行すると、ちょうど地形図の中心に2つの支流がある。北側が「ワサビ沢」、南側が現在「餓鬼の沢」と言われている。荻生徂徠らはおそらくワサビ沢から餓鬼の沢へ山肌をトラバースし、主稜線に取り付いて餓鬼の沢上流にある「餓鬼の」を見たと考えられる。

読図の基本は整置と周辺地形の照合にある
今回の山行は核心となる沢まで林道が続くルート。林道があるならコンパスに目的地の方向を覚えこますよりも、自分の向いている方角と地形図の方角を合わせる「整置」を行い、自分が実際に見ている風景と地形図上の地形的特徴を照らし合わせることで現在地がわかる。

まずはスタート地点の把握から行いたい
今回はある程度まで車で林道を走れたため、読図による山行は車の停止位置からとなる。自身の周辺は広い平地で、左前方に大きな山の塊が見えているため、地形図に描かれた等高線から現在地を割り出すことができた。


峡中紀行に記された通りの危険な道のりとなった!?

さて、峡中紀行の道程を推測すると、どうやら「餓鬼の」は現在「餓鬼の沢」と名付けられた沢の中腹にあると予想できる。参考ばかりに峡中紀行から約100年後、1814年に制作された甲斐国の地理的歴史書「甲斐国志」を見ると、やはり「餓鬼の」は柳澤から石空川を遡行し、ワサビ沢を渡って右に瀑布を見ながら険しい山中を歩くとある。おそらくこの瀑布は峡中紀行に記された崖「第一の関」だから、それを右に見るということは、つまり峡中紀行と同じく進路を左にとって山肌をトラバースしたということになる。ちなみに甲斐国志にはまだ続きがあって、四町ばかり行くとやや平坦な場所に出て、草の中を数十歩行くと突起した方六、七尺の大きな石があり、その下に居住できるような空間があるという。今回の山行は、このわかりやすいランドスケープを発見できれば成功ということにして歩を進めた。

峡中紀行を見る限り、どんなタフな藪山行になるのだろうと不安になったが、地形図を見ると拍子抜け。現在は餓鬼の沢まで林道が通っているのである。ならばわざわざ険しい嶺をトラバースせずとも、餓鬼の沢を直登すれば良いのだ。というわけで三ちゃんと編集部は林道を車で進められるところまで行き、そこから地形図と実風景を照らし合わせて現在地を読み取りながら、道のりで言うところの2つ目の沢、餓鬼の沢までやってきた。

ここまで林道が繋がっているということは……。ある程度予測はしていたが餓鬼の沢には2つの堰堤が建設されていた。人工物があるなら「餓鬼の」までの道のりも楽勝だろうとタカをくくっていると、2つ目の堰堤を越えた先に大きな滝が現れた。これじゃあ直登は難しい、それならすぐ横の藪を巻けば……。三ちゃん曰く、大きな滝があるような地形は周囲も高い崖に挟まれている場合が多く、すぐ横を簡単に巻けるようなシチュエーションは少ないらしい。滝を登らないなら、大きく広範囲に巻くよりほかなく、一行は2つ目の堰堤脇から急峻な藪を登った。

ここからはまさに峡中紀行の二の舞になるところだった。険しい嶺を超えて落石だらけのガレた沢を登り、ひと転けで命を落とすトラバースを強いられる。荻生徂徠は峡中紀行の中で、こんな道のりを女子供が歩けたのかと訝しんでいたが、後ろを振り返るとこれまでカメラマンに徹していた編集部・辻が三ちゃんにスリングで引っ張られている。当然戦国時代には22kNの耐荷重を誇るスリングはない。幾人かは道中命を落としただろう。そんな過去の探検に思いを馳せていると、先ほどの滝を巻いて餓鬼の沢の中腹に出た。結果は冒頭の写真の通り。甲斐国志に記された大岩がそこに存在していた。

※国土地理院の電子地形図25000を掲載

餓鬼の嗌を巡る石空川周辺地形図
一行は拓けた林道脇に車を停めて徒歩で餓鬼の沢まで向かう。幾つかの地形的特徴を捉えながら目的の沢に出合い、三ちゃんがいなければ命を落としていた藪を通って「餓鬼の嗌」へ着いた。おそらく1164mの小ピークから荻生らはそれを展望したはずだ。

[01]

[02]

[03]

地形的特徴を捉えれば現在地は簡単にわかる
[01]は地形図同様、沢に対して堰堤が斜めにある。[02]は1つ目のワサビ沢。奥に滝が見えたが、そこが「第一の関」だろう。[03]は地形図上で等高線が右に飛び出した部分。実際は分かれ道のように見える。

餓鬼の沢に到着するとそこには堰堤があった
林道がここまで通っているのだから当然だが、餓鬼の沢には堰堤が築かれている。堰堤の施工情報が記されたプレートには「ワサビ沢」とあるが間違いだろうか。

[04]

地形図を読み取ると上流に滝があるかもしれない
餓鬼の沢に入る前に地形図で沢の特徴を確認。少し上がる崖マークに挟まれた渓がある。こういう地形には滝がある可能性が高いと三ちゃんは言う。

[05]

人工的な堰堤は余裕に越えられるが
川に堰堤が掛かっている場合、それを超えるための人間様用の踏み跡が付いているはずだが、いつもより少し傾斜がキツい気がしたいたのは、後を思うと気のせいではなかった。

[06]

堰堤を越えると予測通りの滝が登場
地形図を見せられつつも大した滝ではないとタカをくくっていた編集部だが、実際の滝を目の前に考え改める。沢ヤではないから滝は登れないので、大きく広範囲に巻くことにした。

[07]

 

 

同山行の核心部は峡中紀行の再現か!?
2つ目の堰堤まで戻って大きく滝を巻く。ここからの道のりは地形図には表れていない急峻な斜面を登っていく。ここら辺一帯が雨により刻々と地形が変化しているとは峡中紀行にも記してあった。

[08]

登山ガイドなしに立ち入るべからず
写真では伝わらないが、左の傾斜はすぐに奈落の底へと落ち込んでいる。「たぶん大丈夫だと思うけど、落ちたら死ぬからロープ出しておく?」という三ちゃんの提案を快諾し、スリングを簡易ハーネスとして身体に巻いてセルフビレイを取りながら進んだ。安全確保術を得ていないなら進んではいけない。

[09]

 

急峻な登りはまだまだ続く
死のトラバースを過ぎても急な登り坂は続いた。ところどころに雨により地滑りを起こしている地形が気になったが、必死で三ちゃんに付いていく。荻生徂徠を追う田中省吾になった気分だ。

[10]

 

大規模な地滑りにより行く手を阻まれる!?
荻生らが断念した主稜線から「餓鬼の嗌」への下り。もう少しで目的地という予感があるが、途中大規模な地滑りがあり行く手を阻む。三ちゃんがステップをしっかり作ってくれたのでクリアできた。
草の中を数十歩行くとついに幻の「餓鬼の嗌」へ
しばらく草の中を歩くと、目の前に巨大な岩が現れた。これが甲斐国志に記されていた岩に違いない。その下に居住できるような空間がしっかりとあったので、三ちゃんの奥方が働く「うさぎや」の苺大福と餡ドーナツを食べた。ここがなければ「忠臣蔵」もない。