【vol.32】狩猟の実践と思想 ー日々サバイバル登山家が穫る野生素材に迫るー

結局生物は他の生物を食べることでしか生きながらえることはできない。
食い食われるという関係でお互いを利用することこそ、一見矛盾するようで共存なのである。

文/服部文祥 写真/亀田正人

今回の素材

食料としても素材としてももっとも活用しているのが鹿である。配合飼料をまったく含まないタンパク質の味は素直で、トレーニング後の栄養素(アミノ酸)としても優れている。雑肉と骨は飼料にし、皮は一部を除き、もの作りをする知人が回収していく。

炭素化合物を交換しながらうねり流れる生命共同体

鹿を撃ち殺していると、自分が怖くなることがある。なぜ、自分は他の生き物を殺していいのか、よくわからなくなるからだ。

私は生き続けたいと思っている。実のところその理由も、考えれば考えるほどよくわからない。だがともかく、いますぐ死にたくはない。ましてや他者の都合で殺されるなどまっぴらである。そう自分が感じているのだから、他の生き物もおそらく同じなのだろうと私は予想する。

だが私は、自分がされるのは「まっぴらごめんなこと」を鹿やイノシシに対しておこなっている。「生きるために殺す」は生物の基本的なあり方なのに、根本的な矛盾をはらんでいるようだ。だから生き続ける(殺し続ける)には、理屈を立てるか、ひらきなおるしかない。

理屈→肉を食べるかぎり誰かが動物を殺している。購入するより自分でやるほうが清々しい。

ひらきなおり→それが生きるってことでしょ。

どちらもそれなりに説得力はあるが、前提として自分の命を優先させていることは説明できていない。動物の命を奪ってまで、生きる価値がお前にあるのか? と問われたとき、私は言葉に窮する(問いの主は不明。シシ神様あたりにしておいてください)。「価値はありません(でも生きたい)」とたぶん答えるだろう。だが、そもそも生きる価値とは何だろう?

 

人間は地球上に70億人以上いるらしい。生物種別の数だけならアリンコやミミズのほうが多い(視認できない微生物以下と植物は除く)。だが、体積で考えたらどうなのだろう。種類別の全体積でもし人間が一番多いとしたら、それはいささか居心地が悪い。自分が、アメリカザリガニのようにあふれ返る迷惑な生物の一部なのだと指摘されるのに似ているからだ。

実際はイカやミミズが数でも体積でも多くを占めるらしい。だが、哺乳類に限ったら人間も最上位の一種になる。対抗するのは牛の13億頭。牛の重量は人間の十数倍くらいだから、全体積は人間より多そうだ。次が豚、ヒツジの約10億頭。ドブネズミの数は人間より少し多いと予想されているが体積ではかなうべくもない。

人間と家畜を合わせると、数でも体積率でも全哺乳類のほとんどを占めてしまう。環境にとって人間とその飼育動物は、まさしくあふれ返る迷惑な生物であり、私はまぎれもなくその一構成員ということになる。

なぜ、人間と人間が飼育する生き物がここまで繁栄したのか。それは長くなるのでおいておこう。そもそも生き物がなんで生まれたのか。この問いの答えを人類はまだ得ていない。ずいぶん前に炭素化合物が震え出したのが、その始まりなのではないかと予想されている。それがなぜ、遺伝子などというものを生み出して、多細胞生物となっていくのか、私はよく理解できていない。ただ、少なくとも何らかのエネルギーが生物の元になっていることは間違いない。

生命エネルギーとは不思議である。我が家ではニワトリを飼っているが、卵のなかにニワトリ一生分の生命エネルギーが入っているわけではない。生まれたヒヨコが、食べ物をエネルギーとして、どんどん成長し、活動し、やがて衰えて死ぬ。それは小さな火種に細い薪から順番にくべていくことで、焚き火がどんどん大きくなっていくのに似ている。最初の小さな火種に焚き火の全エネルギーが入っているわけではなく、太い薪をいきなり燃やすこともできない。少しづつ薪を太くすることで、焚き火は大きくなり、太い薪に火がつけば、今度は消すことは難しいほど安定する。

焚き火は木の死体(炭素化合物)の急激な酸化(燃焼)である。生き物のエネルギーも大きなくくりでは同じカラクリだ。生き物は何らかの炭素化合物を食べて、消化して分解し、呼吸で取り込んだ酸素と結合させ(酸化)、そこで生まれるエネルギーを利用して運動や代謝をおこない、炭素化合物を結合し直して細胞を複製して成長する。

焚き火はみずから薪をくべることはないが、生き物は自分で炭素化合物を取り入れて、自分を維持することができる。

服部家のベランダの手すりに干されている鹿野毛皮。鹿革を利用したもの作りを商売にしようと考えている知人のアーティストが溜まった頃に回収に来る。それまでは干されており、脂をメジロなどの小鳥がつついていく。

子鹿の皮をできるだけ皮側に肉を残さないように剥ぎ、乾かしながら保革油や食用油を塗りこんでいくと、敷物にする程度は柔らかくなる。鹿の皮は毛が抜けるので、山や外でのマットにしかならない。

いま、私自身がたとえ話に使ったように、人間は自分のことや生き物一個体を、独立したひとつの焚き火のように認識する。小さな火種から大きな焚き火になり、やがて衰えて消える、意志を持った有機体。だが、生物全体が大きな焚き火だと考えたらどうなるのだろうか。
 
40億年前に生まれた火種は、自ら薪をくべ続け、現在まで進化しながらずっと燃え続けてきた。
 
生物の数が増えれば、生物の肉体を形成する炭素化合物は増える。だが炭素化合物を形成する炭素や水素などの原子の総数が増えるわけではない。我々生物は、植物が地球の大気中にある二酸化炭素から光合成で合成した炭素を元にできている。そういう意味で、生き物は空気を太陽エネルギーで固めたものということもできる。
 
命と呼ばれる「なにか」は、小さな火種から始まり、地球上にある炭素化合物をやりとりしながら連綿と続いてきた。おそらくこれからも(人間が馬鹿をやらないかぎり)続いていく。
 
生命とは、個体ひとつひとつの命ではなく、炭素化合物のやりとりをエネルギーにした大きな「うねり」のようななにかなのではないのか。
 
現在、エネルギーといえば化石燃料か核燃料がイメージされる。だが、生物のエネルギーとなる食べ物を、化石燃料や核燃料から作り出すことはできていない。
 
同じく、代謝を止めた炭素化合物(死んだ生物)も、どのようにうまく保存しようとしても、数年で酸化したり劣化したりして、別の生き物の食べ物として機能しなくなってしまう。
 
それは、巨大な食物倉庫付きロケットで地球を旅立っても、その宇宙船の乗組員に未来はないということだ。地球を旅立った瞬間からすこしづつ先細りになっていつか死に絶える。世代を繰り返していくには、生態系を丸ごと積み込む超巨大な倉庫が必要になる。ノアの箱船では到底無理、宇宙船地球号も現在はあっぷあっぷになりつつある。
 
生きるとは、人間がイメージするよりもう少し複雑な現象である。多くの生き物が、同時に存在しつつ、炭素化合物をやりとりしながら代謝を繰り返して、世代を交代し、自らを有用な炭素化合物として維持し、その炭素化合物のやりとり(食べたり食べられたり)を続けていく。これが生きるということである。他の生き物と一緒にしか、命を繋ぐことはできないのだ。
 
現代人は、一方的に炭素化合物を摂取するばかりで、ほとんど他の生き物に与える側にならないため、生命のうねりという考えを実感しにくい。平均的な現代日本人は死ぬと火葬場で(化石燃料を使って)燃やされ(有料)、からだを作っていた炭素化合物は二酸化炭素になって、空気中にバラまかれる(それがまた、植物の光合成によって炭素化合物に合成される)。
 
ヨーロッパで生まれた個人主義が、広く世界に広がったため、人間の自意識を病的に強くし、炭素化合物のひとまとまりを「個体」として強く意識しすぎるのかもしれない。
 
生物同士が食べるために殺したり殺されたりという行為は、巨大な生命体の代謝のようなものだ。とすれば、私にとっては鹿を殺すという体験も、ある生物からある生物へ炭素化合物が移動しているに過ぎない。だが、私が撃つ鹿が、生命全体の代謝など意識してはいるはずもない。私も自己保存の本能的欲求に突き動かされて行動しているだけである。
 
生きるとは「一緒に生きて、ときに殺す(食べる)」ことである。と考えたからといって殺しが愉快になるわけではない。マクロと等身大を行き来する思考は、矛盾をなにも解決しない。ただ、獲物は食うと旨いので、その瞬間だけはすべてが肯定されるのである。