【vol.40】八丈島に引っ越して今年で10年になる

八丈島に引っ越して今年で10年が経った。
 
東京の安普請のアパートに住んでいた時には都会の人混みから逃れるように毎年、夏になると天幕道具と太鼓を担いで、八重山諸島に遊びに行っていた。現地に移り住んだ仲間たちが自分たちで家を作ったり、食料を調達したりして生きているのを見て、いつかは自分もそういう暮らしをしたいなと漠然と思っていた。
 
当時はアフリカの紛争地の撮影に取り組んでいたが、日本や海外のメディアはアフリカの紛争にはほとんど興味を示さず、また紙媒体が年々閉塞していく中で金に頼らない生活にシフトしていく必要性も感じていた。そして連れ合いの出身地である八丈島に遊びに行った折に、笹だらけの畑と家を家賃1万円で貸してくれると聞いてすぐにそれに飛びついた。島にはコンビニがないかわりに黒潮が流れる綺麗な海がある。チャラチャラしたものが一切なくて最高だった。
 
僕の住んでいる集落は限界集落で若者が殆どいない。というか、殆ど集落には人が歩いていない。歩いているのはたまに来る観光客と戦争中に作られた人間魚雷格納用の壕に住んでいる、異様に目ヂカラが強いおじさんぐらいだ。
 
東京の仲間たちと離れて生活は一変したけれど、体の奥底に自分の行動がそのままダイレクトに生きるための行為へ繋がっているという充足感があった。写真を続けていく中で考えていても答えが出ない問題に行き当たっても、海に潜って息を閉塞して魚突きをすれば、売れない自分の写真と違って魚は食べられる。とてもシンプルでわかりやすかった。
 
高校時代、三里塚(成田空港建設の反対闘争)の撮影を始めた時、撮影よりもっぱら用地内に住む反対派の有機農家を手伝っていたので、八丈での開墾作業もあんまり違和感がなかった。農家たちの中には戦後日本へ引き上げてきた開拓農民も多く、本当にタフで日が落ちても手元が全く見えなくなるまで作業を続けた。

援農するとご飯は食べ放題というのが決まりで、農家から昼と晩に出される野菜の味の濃さは、今まで自分が食べてきた野菜と同じ物とは思えなかった。特に記憶に残っているのは採りたての、まだ表面に棘が残っているきゅうりを食べた時だった。この時、季節外れの温室で作られた野菜はもう食えないと思った。
 
一方で農家の仕事は草取りかと思うほど、一日中長い畝に挟まり中腰を強いられる作業はきつかった。農村に腰が曲がっている年寄りが多いのもその証左だ。地獄の草取りがやっと終わった!と思っても、一雨降ればすでに草取りを始めた場所から草がニョキニョキと生えてくる。
 
市場での野菜の値段は安すぎて労働量の対価に見合わない。しかも形が揃った虫食いがない綺麗な野菜でないと出荷もできない。 
 
長年続く反対運動で村の共同体は破壊されていたが、第2期空港建設予定の用地内にわずかに残った農家の人たちは第1期空港建設時、国に農地を強制収用されて死者を出すほどの激しい実力闘争が終わった後も、国家権力に弾圧されながら静かに反対運動を続けていた。泥まみれになりながら寡黙に大地を耕す彼らの姿勢を見て、自由は与えられるものではなく体を張って勝ち取るものだと感じた。
 
それは必ずしも綺麗事だけでは片付けられない、孤独でしんどくて、人生の全てをかけなくてはいけない類のもので、自分自身もそれを知ってしまった以上、世間の「綺麗にパッケージされた人生」を生きていくのはもう無理だなと感じ始めていた。
 
島に移り住んでから、都会では土地に対して実態以上の付加価値をつけて生活を強いられていたことに改めて気づく。東京都内の実態以上に高い家賃や人間の時給よりも高い駐車場代。経済的に優位にある一部の人間が株価を変動させるように一方的に価値を作り出し、自分自身の生活もそれに左右されていた。三里塚での経験以前、見た目は綺麗だけど味がない野菜が当たり前だと思っていたように、無意識に染み付いていた縛られた価値観から少し自由になれた。
 
ここでは土地から食べ物ができて(獲れて)、ションベンしたくなったらどこでもできるし、焚き火もいつでもできる。

仲間が開墾する畑を手伝う。

不器用だと連れ合いに言われつつも、今年は雨漏りのひどい屋根のトタンの葺き替えや家の修理を始めている。やる気だけは人一倍あるのに元来の適当さも手伝って、失敗も怪我も多い。
 
また、最近は来客が多く新たに小屋も作りたくて、家の解体現場に入り込んでは廃材を拾っている。島の家は建売住宅ではなく、接着剤を使ってないのでコツさえつかめば結構稼ぎも多い。知り合いには、こんなに大変なことをするくらいならバイトして綺麗な木材を買ったほうが早いんじゃないのと呆れられてしまった。島は輸送費がかかるので木材は内地の倍の値段はするから割りがいいはずと思いつつも、どうも建物を壊すのにはまっているのかもしれない。
 
無心で一人で破壊していき、床材を剥がし太い根太を取り外していく作業はしんどいけど、綺麗に外せると気持ちがいい。根太の隙間には必ずイモリの卵を生んだ白い無数の跡があるのも島らしい。途中で折らないように気を使う、ごぼうとか自然薯の収穫作業にも少し似ている。しかも家の構造もよくわかって一石二鳥だ。
 
2件目の家を壊す時のために、思い切って焼き入れされた鶴首形長バールと破壊力抜群のカナテコも揃えてしまった。これがあれば大体の物は壊せる。しかし、これを持って街場を歩いていたらすぐに警官に職質されてしまうだろうなとも思う。小屋を作るのにどれくらい木材がいるのかはわからないけれど、まだまだ家を壊したい気分だ。
 
ちなみに僕の住んでいる家は100年近い古民家で、土台は海で拾ってきた玉石の上に固定されずに乗っかっているだけだ。今の建築基準法ではもう認められていない工法だよ、と島の大工さんが教えてくれた。床下に潜ると微妙なバランスで基礎が作られているのに驚く。山から木を切り出し、木挽して材を手作業で加工する。当然ながら運び出すトラックも機械もない。動力は牛と人間だけだ。昔の人の作業量と根気。そして「生きる知恵」には敵わないと思う。

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を今年2月に刊行。