アメリカを主(あるじ)とする精神的奴隷状態に陥った日本人において「世界」とは西洋多数派の先進国圏を指している。ゆえに副題にある“世界を敵に回す”とは無意識にアメリカ視点から生まれた言い回しであって、それに付随する「正義」や「常識」といった観念も多数派から見た独善的思考でしかない。「常識は疑うべき」と、これまで幾度となく提唱してきた本誌だが、改めてここで確認する。自然を克服したと錯覚したホモ・サピエンスが“次は”とばかりに同種相手にテリトリー争いを繰り広げる今、最強国アメリカの正義を鵜呑みにして良いのか。2020年初め、米国とタリバンは形式的な和平を結んだが、テロ※は微増傾向にある。ここでは過去にタリバン、アメリカの両者に従軍取材経験を持つ戦場ジャーナリスト・横田徹氏ならではの希少な体験から実態を掴みたい。
※そもそもテロということ言葉自体、アメリカ側の言い分である
写真・レポート/横田徹
タリバンの視点
“敵に追われて助けが必要な者がいれば、自分の命をかけてでも 守り抜く”パシュトゥン人の掟
1989年のソ連撤退後、アフガニスタンではタジク人のマスード、ウズベク人のドスタム、パシュトゥン人のヘクマティアル、ハザラ人のハリリなどの軍閥が新政権の樹立を求め、各地で争いが勃発し混乱を極めていた。90年代半ばまでにこの内戦で3万人以上の国民が殺され、50万人が難民となった。殺戮で荒廃した都市部では各軍閥の民兵が住民に対して略奪や暴行を行い、道路に設置された検問所では道行く人から高額の通行料をせしめ、少女や少年を拉致しては強姦をした。
そんな絶望的な状況に怒りを覚えて立ち上がった男が、アフガニスタン南部出身のムラー・ムハマンド・オマルである。彼はソ連との戦いにムジャヒディーン(イスラム聖戦士)として身を投じ、右目を失いながらも生き残り、ソ連撤退後はカンダハール郊外のマドラサ(イスラム神学校)で宗教指導者となっていた。マドラサはアフガニスタンの辺境やパキスタンにあるアフガニスタン難民キャンプにも多く設置され、貧困に喘ぐ若者たちに過激なイスラム思想を教えていた。
ある日、村の少女が誘拐されたことを聞いたムラー・オマルは、マドラサの教え子30人を引き連れて民兵のアジトに殴り込みをかけ少女を解放し、殺した民兵たちを見せしめとして戦車の砲身に吊るした。そんな噂を聞きつけた各地のマドラサで学ぶパシュトゥン人たちは、ムラー・オマルと共に軍閥からアフガニスタンを取り戻すべく戦闘に加わっていった。後に彼らは「タリバン(神学生)」と呼ばれるようになる。タリバンは破竹の勢いでカブールを陥落させて国土の9割を制圧。厳格なイスラム法と「パシュトゥン・ワーリ」と呼ばれる独自の掟で統治するアフガニスタン・イスラム首長国を樹立した。
ーーー
駆け出しのフリーランスカメラマンがアフガニスタンを取材するのは、新人登山家がエベレスト登頂にチャレンジするようなものだ。“そこに山があるから”登山家が命がけで山に挑むように、“そこにタリバンがいるから”という理由で私はアフガニスタン行きを熱望した。しかし、アフガニスタンを取材しようにも現地に信頼できる人脈はなく、無名なカメラマンの身元を保証し、取材申請レターと取材費を出してくれる出版社やテレビ局などあるはずもない。アフガニスタン行きの機会を指を咥えてジリジリ待ちながら、私は現地取材を経験したジャーナリストの体験談を食い入るように聞き入っていた。アフガニスタンは身体的な危険度や取材の難易度など、あらゆる面でハードルが高く、まさに戦場取材のエベレストのような存在だった。
2001年6月、ついにそのチャンスはやってきた。当時の私はタイのバンコクを拠点に報道写真を撮るかたわら、韓国の国営放送KBS向けにニュース番組を製作する雇われムービーカメラマンとして活動していた。一緒に組んでいた女性ディレクターのカン・キョンランから「タリバンから取材許可が出るかもしれない。一緒にアフガニスタンに行かないか?」と誘われ「もちろん行く!」と即答したのだった。
“叩けよ、さらば開かれん”
長年、壊れるほど叩き続けた扉を、タリバンは開けてくれたのだった。
ちょうどこの時、タリバンは“偶像崇拝はイスラムに反する”として世界遺産に登録されていたバーミヤン仏像を破壊し、国際社会から猛烈なバッシングを受けていた。他にも彼らは女性の通学と就労を禁止し、犯罪者はイスラム法に則り容赦無く処刑するというネガティブなニュースだけが世界中で報道されていた。
秘密のベールに包まれたタリバンだからこそ、その実態を取材してみたいと私は思っていた。問題は、タリバンが人間はもちろん動物でさえ生き物の撮影を禁止していることだ。もし撮影しているところを宗教警察に見つかったらカメラは破壊されるという。だからといって“撮らせない”と言われたら撮りたくなるのが報道カメラマンというもの。ディレクターのカンとパキスタンのイスラマバードで合流した私は、アフガニスタン取材の第一人者でCNNの特派員をしているケマール・ハイダーに会い、取材の協力を請いた。
ケマールのアドバイスはイスラマバードから直接空路で首都カブールに入るのではなく、彼の事務所がある南部の都市カンダハールに陸路で入り、彼の紹介でワキル・アフマド・ムタワキル外務大臣にインタビューをして、その際に取材許可証を発給してもらうというというものだった。そうすればカブール以外の取材は基本的に自由だという。当時、タリバンの最高指導者ムラー・オマルの邸宅や組織の中枢はカブールではなくカンダハールにあった。さらにケマールは通訳兼案内人として30代半ばの弟ジェマールを紹介してくれた。アフガニスタン大使館でビザの発給を受けた我々は空路でクエッタに移動し、陸路でアフガニスタンへと入国した。
クエッタから国境を越えると風景はがらりと変わった。果てしなく続く荒野を我々が乗るトヨタのハイラックス・サーフは砂塵を巻き上げながら疾走する。車窓から流れる夕暮れで真っ赤に染まった大地を見ながら、私は憧れのアフガニスタンに来たという幸せを噛み締めていた。
カンダハール市内に入ると中世にタイムスリップした錯覚に陥り、興奮のボルテージが上がった。ケマールの事務所に着いた我々を出迎えてくれた一人が、教師をしているというハンサムな20代のムイボラだった。なんと彼の兄はムラー・オマルの秘書をしているという。警戒心の強いムラー・オマルは邸宅に引きこもり、直接会えるのは忠誠を誓う側近だけと言われていた。ケマールがアフガニスタンに事務所を構えて自由に取材ができたり、ムタワキル外務大臣へのアポが簡単に取れたりしたのはムイボラ兄の協力があったからなのだ。
翌日、カンと私はムタワキル外務大臣の前に座っていた。タリバンの中でも穏健派と言われる彼は温厚だが、その佇まいからは静かな威厳が滲み出ていた。
我々の一番の興味はアフガニスタンに匿われているOBLことオサマ・ビン・ラディンに関することだった。ビン・ラディンについての詳しい説明は割愛するが、かつてソ連との戦いの最前線で活躍していたのがビン・ラディンと彼が率いる外人義勇兵だった。そして、その義勇兵の後方支援をしていたのがソ連と対立していたアメリカだった。
しかし、1991年に湾岸戦争が勃発すると、ビン・ラディンはアメリカ軍がイラク攻撃の後方支援基地としてサウジアラビアに進駐したことからかつての友好国へ聖戦を布告する。これについてサウジ王室を批判したこともあり、彼は国籍を剥奪されてスーダンに身を隠し、1994年にはタリバンの庇護の元、アフガニスタンへ戻った。無論、かつて共に戦った義勇兵たちも彼が企てるアメリカとの聖戦に共鳴し、続々とアフガニスタンに集結。この国際イスラム義勇兵のネットワークは「アル・カイーダ」と呼ばれた。
アル・カイーダは1998年にケニアとタンザニアでアメリカ大使館へ爆破テロを行い、2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍の駆逐艦に自爆攻撃を実行。アメリカはタリバンにビン・ラディンの引き渡しを求めるが、彼らはそれに応じなかった。タリバンにとって、対ソ連の戦いでは命を懸けて戦い、財政が枯渇している組織に莫大な資金援助を行う富豪ビン・ラディンは特上の客である。ムラー・オマルは“敵に追われて助けを求める者がいれば、命をかけてでも守り抜く”というパシュトゥンの掟に則り、ビン・ラディンをアメリカに引き渡すことを拒否したのだ。“仁義”という言葉に敏感な日本人、古き良き時代の東映イズムに血が騒ぐ世代にはたまらない話ではないだろうか。
早速、インタビューをはじめる。
アフガニスタンにいると言われているオサマ・ビン・ラディン氏について聞かせてください。
「ソ連との戦いの際、アメリカはオサマ・ビン・ラディンというヒーローを作り出しました。そして、かつてのヒーローは今、テロリストと呼ばれています。アメリカは自国の利益のためならば白を黒に、黒を白にしてしまいます。確かにオサマ・ビン・ラディンはアフガニスタンに滞在しています。アフガニスタンには我々の法律があり、裁判があるので、彼をアメリカに引き渡す必要がないのです」
アメリカと交渉する必要はないということですか?
「我々はいつもアメリカと交渉したいと思っていますが、彼らは交渉の代わりに巡航ミサイルを使います」
ムタワキル外務大臣は落ち着いた口調で答えてくれた。自分たちの近くにあのOBLがいることに興奮を覚えた。
タリバンの最終目標とはなんですか?
「タリバンとは神学生運動です。タリバンに加わった若者は平和を望み、アフガニスタンを崩壊から守る強い政府を必要としていました。タリバンのシステムは欧米のものとは違います。我々の文化と伝統に適合するシステムを課しています。世界各国には様々な文化が存在しており、欧米の文化に同調する必要はありません。今言えることは、イスラムに沿った国家の運営というシステムを達成したいということです」
ムタワキル外務大臣から静かに教えを説かれた我々は、これまでの“乱暴な原理主義者”というタリバンへのイメージが変わりつつあることを感じていた。そして邸宅を出た時、我々の手にはムタワキル外務大臣の署名入りの取材許可証が握られていた。我々はカンダハール、ヘラート、ウルズガン、バーミヤン、カブールを取材して、最後の取材地であるジャララバードへ向かった。
ーーー
ハイラックス・サーフに乗ったジェマールと私はアフガニスタン東部、パキスタン国境に接するクナール州の山岳地帯を、尻が痛くなるのを我慢しつつ北上していた。
私が運転免許を取得したばかりの1990年頃、ハイラックスは本来の目的である無骨なアウトドアラーというよりトレンディな街やビーチをクルーシングして女の子をナンパする、いわゆる“デートカー”として若者に人気があり、私の青春に欠かせない思い出の車だった。そんな平和な日本からパキスタンなどを経由してこの地へやって来たこのハイラックスも、まさか余生を究極のオフロードが広がるアフガニスタンでコキ使われるとは思ってもいなかっただろう。タリバンはその性能の良さから戦闘車輌としてハイラックスを重宝しており、私はこの名車と同じ昭和、平成を生きた者として誇らしさと同時に同情を隠せなかった。それはハイラックスの設計に携わった技術者とて同じ思いに違いない。
取材旅行も終盤に差し掛かり、私はついにタリバンの戦闘部隊に従軍取材できるという幸運を手に入れた。カンは女性ということで前線取材を諦めて東部の都市ジャララバードで待機することになり、別の取材を行っていた。出発前にジェマールからは目的地を知らされず、ただ「山に行く」とだけ告げられた。カメラで撮られることを嫌うタリバン、ましてや最前線の戦闘部隊ということもあり、カメラを向けた途端に撃たれるか、カメラを叩き壊されるのではないのかという不安があった。
4時間ほど走っただろうか、山道で武装した集団に遭遇した。裾の長いシャルワール・カミーズ(民族衣装)に足元はサンダル、手には錆びついたAK47が握られていた。まるで野武士のような彼らがタリバンの戦闘部隊だった。私は心臓が飛び出しそうなくらい怯えながら、それまで隠しておけと言われていたカメラをカバンから取り出し、横目でジェマールを見てアイコンタクトすると彼は頷いた。
タリバン兵士の案内で丘の上の前哨基地にたどり着いた。クナール川を望む頂上には岩を使った掘っ建て小屋があり、10人ほどの人間がここで寝泊まりしているようだった。薪を割って火を熾し、川の水を汲み上げて煮炊きするという本誌読者憧れの原始的生活を送っていた。
彼らが我々のためにヤカンに水を入れてチャイを淹れてくれる準備をはじめたので、私も恐る恐る撮影をはじめた。兵士たちは特に気にする素振りを見せないので、小屋の内部や食料庫、そして弾薬箱の中身まで隈なく撮影した。その後、彼らはチャイと食べ残しの硬くなったナンを振舞ってくれて、それを口にすると少しだけ気持ちがリラックスした。
小屋の隣にはロシア製の巨大なDShk38重機関銃が一門、鎮座していた。これは飛行機やヘリコプターに対して威力を発揮し、第二次大戦時から使われている。私は本来の図々しさが芽生え、黒ターバンの兵士をその前に立たせてムービーを回しはじめた。兵士も調子に乗って“いっちょ撃ってやるか!”と言わんばかりに銃身の向きを変えてトリガーを引いたが、弾詰まりを起こして何も起こらない。気まずい表情をした兵士は慌てて機関部を分解してベルト弾帯に詰まった弾薬を装填しなおした。再び引き金を引くと銃身の側にいた私は爆音と衝撃波で仰け反った。サービス精神旺盛な兵士は周囲に弾を撒き散らしていたが、別の兵士に「いい加減にしろ」と頭を叩かれた。タリバンたちの想定外のフレンドリーな態度に私は戸惑いながら、自由に撮影できることにカメラマンとして最高に幸せを感じていた。
その後、この地区を管轄する司令官に会うために5人のタリバン兵士と共にさらに北へと車を走らせた。四方を山に囲まれ、緑の多いクナール州は乾燥して荒涼とした南部のカンダハールとは大きく異なっていた。司令官は山の麓にある農村に住んでいた。
穏やかな顔をした50代の司令官は会った瞬間に心を開いて悩み事を打ち明けてしまいそうなほど柔和で魅力的な人物だった。砂糖をたっぷり入れた緑茶と、アーモンドと、干し葡萄を食べながら今回の旅のことや家族の話をして過ごした。兵士たちの態度からこの司令官がどれほど慕われているかがわかる。それはまるで軍隊というよりも任侠といった雰囲気だ。
お茶を飲み終え、司令官の案内で徒歩で最前線へと向かった。岩だらけのゴツゴツした山道を武器を手にしたタリバン兵士の後に続く。トレッキング・ブーツでもこの悪路を歩くのは苦労するというのに、タリバン兵士は履き古したサンダルで苦もなく登っていく。この健脚こそが彼らの武器の1つであり、最新の兵器で武装したソ連軍を打ち負かしたのだ。
やっとの思いで山頂にたどり着くと、3000m級の山が連なる絶景が広がっていた。石造りの小屋には中国製弾薬と砲弾が大量に積み上げられ、銃座に備え付けられた軽機関銃や迫撃砲があった。ここでもタリバンは私に気を使い、盛大に軽機関銃を空に向けて撃ちまくるサービスを披露してくれた。
「敵はこのすぐ先の地帯を占拠しており、肉眼でも敵の拠点が見えるほど近いです。敵は弱体化しており、我々がここにいる限りこの一帯は保持されます。万が一、攻撃を仕掛けてきても敵はその報いを受けるでしょう。私は自分の人生を聖戦に捧げます」
司令官の顔には近いうちに軍閥を壊滅させるという自信が溢れていた。傍にいた古参の兵士が「もう12年間も聖戦を戦っている」と言って肩と脚に刻まれた古い銃創を見せてくれた。
「彼らが地雷原を突破する方法を知っているかい?」とジャマールに聞かれた。
「彼らは地雷探知機なんか使わない。ただひたすら地雷原を歩くんだ。地雷を踏んで死ぬか負傷したら、次の兵士が前へと進みまた地雷を踏む。そうやって地雷原を突破して行くんだ」
その話に私は衝撃を受けた。タリバンが短期間でアフガニスタンの国土を制圧できたのは、こうした死を恐れぬ精神の賜物だったのか。どんな大国も最新の兵器を使って一時的に占領はできても、彼らの不屈の精神を打ち破ることはできない。私は周囲にいる純朴なタリバン兵士たちに尊敬の念を抱いた。
夕方になり移動が困難になると判断したジェマールは、今夜は無理をしないで集落の民家に泊めてもらえばいいと提案してきた。5人のタリバン兵士たちも同行してくれるという。夕食は大皿に盛られた羊肉入りの炊き込み飯だった。無事に取材ができたことへの安堵感で私は食欲が湧き、山の前哨基地で暮らすタリバンたちも久しぶりのご馳走ということで皆車座になって大飯を食べた。食後は甘いチャイを飲んで談笑し、夜は1つの部屋に皆で雑魚寝をした。壁に立て掛けられたAK47、月明かりに照らされて浮かび上がる男たちの影。周りで鼾がはじまり、私はそれを聴きながら不思議な感覚が込み上げてきた。これまで私が抱いてきたタリバンへのイメージは、今回の取材旅行で大きく覆された。
翌日の午後、司令官とお茶を飲んでいる際にジェマールが司令官の娘と結婚したことを打ち明けてくれた。
「俺は女房に惚れて結婚したのではなく、この司令官の娘だったからこそ惚れて、家族になりたいと思ったんだ」
私はこの言葉が今も忘れられない。この頃、多くの新聞やテレビではタリバンを“血も涙もない無教養な野蛮人”と伝えていた。もしここにいる男たちが野蛮人ならば、自分も野蛮人の仲間に入りたいと思った。
余談になるがこの夜、あまりにもリラックスし過ぎたのか齢30歳にして15年ぶりに夢精をした。このことはいくら心を許したとはいえタリバンやジェマールにも内緒にした。無駄に彼らを困惑させたくないのと、タリバン内部で“日本人カメラマンが最前線で夢精をした”と語り継がれてしまうのを恐れたからだ。今思い返すとカンダハールで食当たりと熱中症にかかった時、私の身を心配したムラー・オマルの秘書の弟ムイボラから貰った“俺たちが戦う前に飲む薬だ”という得体の知れないシロップを飲み過ぎたのが原因だったのではないかと思っている。
アフガニスタンからバンコクに戻った私は中世から現代に帰ってきた感じで、しばらく抜け殻のような状態で惰眠を貪っていた。まさかこの年の9月11日、全世界を揺るがす大事件が起きるなどとは夢にも思わずに。
アメリカの視点
“アメリカの 魂の本質は頑固で、孤立、禁欲的で殺人者だ。それはいまだに 溶解していない”D・H・ロレンス
アル・カイーダによるアメリカ同時多発テロの翌日、カンと私はパキスタンのイスラマバードへと飛んだ。パキスタン西部のペシャワールでアフガニスタン難民や反米デモを取材し、多くのジャーナリストと共にアフガニスタン行きのチャンスを待った。
それまでタリバンをロックバンドのグループ名だと思っていたほどアフガニスタンに無関心だったジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタンに潜伏するビン・ラディンとアル・カイーダメンバーの引き渡しをタリバンに通告するが、やはりムラー・オマルはそれに応じなかった。
2001年10月7日、堪忍袋の緒が切れたアメリカ軍はタリバンに対して軍事行動に出た。爆撃機や巡航ミサイルでアフガニスタン各地のタリバン軍事施設を破壊し、タリバンと対立していたタジク人、ウズベク人、ハザラ人の軍閥で構成する北部同盟にCIAと特殊部隊が合流。資金と武器を提供して反撃を開始し、敗走するタリバンの多数が殺害、拘束された。そして11月13日、北部同盟はカブールを奪還した。
ビン・ラディンとアル・カイーダはアフガニスタン東部にあるパキスタン国境の山岳地帯に逃れ、空爆と米英特殊部隊の追跡をかわして国境を越え、パキスタン政府の支配が及ばない北西部の部族地帯に逃げ込んでいた。ビン・ラディンを逃したとはいえ、アメリカ軍と北部同盟の圧勝でタリバンは壊滅したと思われていた。
私は2002年の6月にアフガニスタンへ戻った。記憶とは異なる荒廃した現地では、アメリカ軍が進駐する中でも住民が少しずつ復興をはじめていた。
私はカブール、カンダハール、ジャララバードと変わり果てた思い出の地を巡り、北部のマザリシャリフでは北部同盟に投降したタリバン捕虜収容所を取材した。この収容所には1260人のタリバン捕虜が収容されており、環境面、食事面など、過酷な環境に胸が痛んだ。9・11以降、仕事の依頼が一気に増えた私はアフガニスタンに何度も訪問して取材を続けた。この頃、メディアの注目はアメリカの次なる攻撃目標であるイラクへと向かっており、アフガニスタンやタリバンは忘れ去られつつあった。
2007年12月に私はアフガニスタンに駐留するアメリカ軍の従軍取材をはじめた。“世界一の軍隊”を保有するアメリカがイギリスやロシアも屈した“帝国の墓場”と呼ばれるこの地でどのような影響力を保持し、再建させるのか、この目で確かめたかったのだ。アメリカ軍はアフガニスタンのほぼ全土に展開していたが、私はパキスタン国境に近い東部エリアに展開する部隊に絞って取材した。この頃からタリバンはパキスタンの部族地区などで人員と武器の補充をして力を蓄えており、サダム・フセイン政権後の混迷するイラクに力を注いで手薄になっていたアメリカ軍との戦闘が多発していた。
2008年10月、アメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプターの後部座席に乗った私はクナール州のコレンガル渓谷にあるコレンガル前線基地に向かっていた。辺りを重武装した2機のアパッチ攻撃ヘリコプターが警戒している。機体側面に備えた機関銃を操る機銃手は時折、身を乗り出しながら目を光らせる。山の頂に潜むタリバンは巧みに隠された重機関銃でここを通過するヘリコプターに攻撃を仕掛けてくるという。
ブラックホークが山の尾根にある木々を切り開いた空き地に向けて急降下した。着陸と同時に機銃手に急かされ、私は軍用ヘルメットの紐を締め直して自分の荷物を抱え、機外へと飛び出した。同時に数人の兵士が乗り込むとブラックホークはコレンガルから逃げるように飛び去っていった。小さくなっていくブラックホークを見て、私は急に不安が込み上げてきた。兵士から“死の谷”と呼ばれ恐れられるコレンガル渓谷にやって来たのだ。
私はまずこの基地の責任者に挨拶するため指揮所へ向かうと、ちょうどコンクリート作りの建物の前に指揮官がいた。
「ようこそコレンガル前線基地へ。ここに取材に来る従軍記者は多いですが日本人は初めてです」
第一歩兵師団バイパー中隊の30代前半と思われるハウエル大尉は、“死の谷”指揮官とは思えない優しそうな顔をしていた。
「ちょうどこれから小隊がこの付近のパトロールに出発しますが同行しますか?」
「もちろん!」
即答した私はこの基地で寝泊まりする宿舎に荷物を置き、カメラの準備をしてヘルメットと甲冑のような防弾ベストを身に付けると兵士たちが集合する広場へと向かった。このパトロールを行うのは第2小隊とアフガニスタン国軍の兵士、そして国軍兵士のアドバイザーとしてアメリカ海兵隊員の2人が同行した。小隊の兵士の多くは20代前半だと思われるが、一様に疲れた表情を浮かべ、埃まみれで擦り切れた迷彩服姿にいかにここが過酷な場所なのかが見て取れた。一方で海兵隊員のマデレノ一等軍曹は歴戦の兵士の風格を滲ませており、皆から“ガニー”と呼ばれ頼られる存在だった。
小隊長の簡単なブリーフィングが終わると我々は険しい山道を歩き出した。30分ほど歩くと息が上がってきた。地面から突き出た岩々に足を取られて非常に歩きにくい。ヘルメットと防弾ベストを身に付けて登る山は、普段からそれらを身につけていない者にとって苦痛でしかない。兵士たちは私の倍くらいの重い装備を身につけていながらも平気な顔で歩いていく。
やっとの思いで山を降りると次は急勾配が待っていた。私は悪態をつきながら必死に兵士たちに付いていった。かつてこのクナール州でタリバンと一緒に山を登ったことを思い出し、不思議な気分になった。
しばらく歩き続けると山の斜面に集落があった。木造民家の軒先で老婆が煮炊きをし、紐に干された洗濯物の間を子供たちが走り回る。ここはアフガニスタンでも1、2を争う激戦地だ。まさかこんな戦場に一般住民がいるとは想像もしていなかった。もちろん、このロイ・コライ村には電気や水道がなく100年前、いやそれ以前と変わらぬ生活をしていた。
村の石垣に背をもたれて小休止をしていた時、兵士たちに緊張が走った。向かい側の山にタリバンが待ち伏せしていると情報をキャッチしたようだ。2人の海兵隊員と国軍兵士が周囲に展開する。ラッセル伍長は石垣から頭を出して双眼鏡を使って索敵している。私の傍の国軍兵士は軽機関銃を石垣の上に乗せてボッーと山を見ている。私も恐る恐る頭をもたげ山の尾根を探すが人影は見えない。するといきなり横の軽機関銃が火を吹き、空薬莢が私に降りかかってきた。私は反射的にビデオカメラのスイッチを押して撮影をはじめた。周囲に展開する兵士たちも応戦をはじめて銃撃音が響く。さっきまでいた老婆や子供の姿はなく扉は閉ざされていた。銃撃は5分ほどで終わり再び静寂に包まれた。ラッセル伍長が国軍兵士に軽機関銃を撃てと命じ、数発撃つと向かいの山から銃弾が飛んできた。私は慌てて頭を引っ込めて石垣にへばりついた。“ズドン!”と爆発音がして30m先の石垣が吹っ飛び白煙に包まれていた。
「クソ野郎!」と毒づいたラッセル伍長はライフルに付いたグレネードランチャーを敵陣へ撃ち込んだ。そしてシュルシュルと頭上を越える音が聞こえたかと思うと山の中腹付近に閃光、白煙と共に大量の火花が飛び散った。白リン弾だ。マデレノ軍曹が応援を要請し、コレンガル前線基地の迫撃砲陣地から撃たれた砲弾が次々と着弾する。一帯を焼き払う白リン弾の威力にタリバンは全滅したに違いないと思った。マデレノ軍曹が国軍兵士を引き連れて戻ってきた。
「引き上げるぞ。まだ敵がいるかもしれないから頭を低く、遮蔽物に隠れながら進め!」
そしてビデオカメラを構える私に向かい、「君は俺の背中から離れるな」と言って走り出し、私は彼を追いかけた。すでに疲労困憊していたが基地までの帰り道はアドレナリンのおかげで無事に辿り着くことができた。
翌日、兵舎を揺るがす爆音で目が覚めた私はカメラを掴んで外に飛び出した。兵舎のすぐ横は迫撃砲陣地があり、砲撃要請を受けて120mm砲弾を矢継ぎ早に約10キロ先の敵に向かって撃っていた。昨日あれほどの砲弾を打ち込まれたのにも関わらず、タリバンは懲りずにまた攻撃を仕掛けているのだ。兵士によるとこの3ヶ月で3000発以上の砲弾を消費したという。
いつの間にか上空に飛来したA-10サンダーボルト攻撃機が青空にゆっくりと弧を描いている。そして“バリバリバリ!”と音を立てて山に向けてミサイルと機銃を撃ち込んだ。そこにはシャルワール・カミーズにサンダルを履いたタリバン兵士がいる。私はかつて出会った兵士たちの顔を思い出し、胸が締め付けられた。
攻撃を終えたサンダーボルトが飛び去ると、2機のアパッチ攻撃ヘリコプターが機銃を使って念入りに掃射する。この激しい空爆で近隣の村を誤爆しないか心配だった。対テロ戦争は「非対称戦争」と言われているが、目の前で行われているのはまさにそのものだった。そして2時間ほど続いた戦闘は終わった。
この2時間で使用した航空機の燃料と武器の総額はいくらになるのか? サンダル履きの軽装備な敵に対してかかる戦闘コストは、果たして見合うものだろうかと疑問に思った。このコランガル渓谷だけでも毎日のように莫大なアメリカの税金が浪費されているのだ。戦果はともかく費用対効果で考えるとアメリカ軍は負けている。白煙に包まれるコランガル渓谷は幻想的な風景を映し出していた。
ーーー
コレンガル渓谷の尾根沿いにはベガス、ビモート、レストレポという名前のOP(監視所)が山の頂きにへばりつくよう点在し、そこには約15名の米兵と、同じ数の国軍兵士が配置されてタリバンの動きを監視している。中でも2007年にここで戦死した看護兵の名前から付けられたレストレポOPは頻繁に襲撃を受けており、この死の谷で最も多くの死傷者を出している。だからこそ私はレストレポの取材を希望した。コレンガル前線基地から徒歩だと3時間かかるが、幸運にも感謝祭の七面鳥料理を運搬するブラックホークに乗ることができたので、たった10分でレストレポOPに辿り着いた。
この山の上の砦は私が見てきた中でも一番小さく、洞窟のような寝床は潜水艦くらいの狭さだ。3度の食事はMREと呼ばれるレーションでシャワールームはなく、ペットボトルのミネラルウォーターで体を洗う。20代前半の指揮官、バーキー少尉に挨拶を済ませるとすぐに食事がはじまった。七面鳥とパンプキンパイに温かい料理に飢えていた兵士たちは大喜びでかぶりついた。“戦場では食べられる時に食べておく”のが鉄則で、私も紙皿に盛られた久しぶりのご馳走を一瞬で平らげた。
古参の兵士から葉巻を渡されて景色が一望できる展望台に向かった。溜息が出るほど雄大な景色。それを眺めながら肉汁が残る口内に濃厚な煙を吸い込むのはたまらなく幸せだった。
兵士が淹れてくれた甘いチャイを飲みながら至福の時間を過ごした。ふと約7年前に同じクナール州の山の上でタリバン兵士たちとチャイを飲んで談笑していたのを思い出した。私は兵士たちと過ごす、このような時間が好きだった。ビデオカメラを前にしては話せない彼らの本音が聞けるからだ。若いアメリカ軍兵士たちの多くは素朴で純粋だ。はじめはアフガニスタンの治安を守り、住民の生活を向上させようと意気込んで派兵されるが、派兵期間が延びるにつれて敵の強さと住民の頑固さに直面し、時が経つにつれて派兵期間を五体満足で生きて帰国することだけを考える。
コレンガルを含むアフガニスタン全土で、アメリカ軍は住民をタリバンに協力させないよう医療部隊や地域復興の手助けをする専門部隊を派遣して村人を味方にする“ハーツ&マインド(人心掌握)作戦”を実行していた。この時点でアメリカ軍がアフガニスタンに駐留して約6年が過ぎていたが、首都カブールでさえ電気、水道、道路などのインフラは整っておらず、治安の悪化で戦闘が増え、住民の誤爆や誤射も増えていた。前年にはロイ・コライ村でもアメリカ軍の誤爆を受けて子供を含む村人が殺された事件が起きた。死ぬほど殴られた後に絆創膏を渡されて誰が感謝するだろうか? 村人の多くはアメリカと同じような近代的で便利な生活を望んではいない。平和で伝統的な生活が送れればそれでいいのだ。客人を受け入れ、助けを求めれば命を懸けてでも守ってくれるが、武器を持って土足でズカズカ入ってくる侵略者には徹底的に抵抗する。アメリカはこの地でかつてのソ連が犯した過ちを繰り返している。
数発の銃声が渓谷に響いた。それまでの平穏なひと時は一瞬で消えた。ヘルメットを被りライフルを手にした兵士たちは自分の持ち場へダッシュする。私もカメラを手に彼らの後を追った……。
その後、2010年4月にアメリカ軍はコレンガル一帯の基地を放棄した。アメリカ軍がアフガニスタンに侵攻して20年近くになり、アメリカ史上最長の戦争となった。タリバンとの和平交渉は難航し、彼らは再び支配地域を増やしている。政府・軍高官はアフガニスタンでの軍事作戦と復興計画は失敗だったと認めている。
“復讐に100年かけても遅くはない”というパシュトゥン人の掟がある。掟に生きる頑固者ほど厄介なものはない。