今この瞬間も、サバイバル登山家・服部文祥は北の大地のどこかを歩いている。三ヶ月間、無銭徒歩旅行。文字通り、現金もカードも連絡手段も一切持たずに
北海道を縦断するこの旅路は、自力を元手とする身体表現を続けてきた服部の真骨頂と言えるだろう。彼以外、彼の行方は分からないゆえ、生きて戻らない限りは詳細不明。彼が戻り次第報告する。
本文/服部文祥 写真/亀田正人
身体的な延びシロがなくなって、登山が面白くなくなった。難しいことが新しくできるようになるという身体的な喜びがなくなったからである。同じレベルの登山でもやれば面白いし充実もするが、けっこう危険なので新しい喜びがないとやっぱりつづかない。
それがゆっくりと獲物にシフトしてきた最大の理由だと思う。生き物の行動はランダムなので予想できず、いつも新鮮な刺激がある。対戦型のスポーツにドラマがあるのとおなじだ。もっと露悪的に自己分析すれば、自分の命をもてあそぶことが怖くなり、獲物の命をもてあそんで、ギリギリのところにいるような気分になっているのかもしれない。
近年は、仲間といっしょにサバイバル登山もおこなってきた。フィールダースタッフが付き合ってくれたからだ。培った知識や技術を披露したり、それを誌面にしたりするのはそれなりにモチベーションの維持には繋がった。だがそれも南会津ー奥利根の継続遡下行(vol・42)で頭打ちになった。
「もう一度、あんなに大変で危険なことをやるのか」と思うと胸の内にどす黒いものが広がっていく。あの規模の登山ができるエリアも他にはない。もうこんなこと、やめる潮時であることはわかっているのだが、これまでの人生をずっと身体表現で生きてきた積み重ねがあるので簡単に手放すこともできない。他の生き方も知らない。そうやって登山者は「山に死ぬ」のかもしれない。
本当にやりたいことはなんだ、と自問してみた。
フィールダーでも紹介した、増毛山塊の秋のサバイバルごっこや日高のサバイバルごっこは面白かった。だが、北海道という広大なエリアを生かしきれていない。とはいえ街にいったん降りて隣のエリアにハシゴするというのも馬鹿らしい。
南会津ー奥利根の継続遡下行でも国道を横断してエリアを繋げた。その時ピンときた。お金を払って何らかの経済活動に参加しなければ、ずっと荒野がつづき、山旅は途切れないのだ。それまでのサバイバル登山でも山の中では何も売っていないので経済活動に参加しなかった。お金がザックの奥で無駄な荷物になる瞬間、それが自力感に繋がっていることは体験でわかっていた。ならば現金もカードも持たずに旅を続ければ、すべてが荒野になるのではないのか?
正直、規模の大きな海外のフィールドを西部劇的にどこまでも旅してみたいと憧れていた。ただ、調べるほどに銃の所持や食べられる草木の知識、政治的な問題など、規模の割に旅の自由度が狭く、また、わざわざ海外に行ってそこに生きているものを自分の都合で殺す、というのも気乗りしなかった。
だが、現金を持たなければ文明化した世界も荒野になる。憧れていた巨大エリアの出現だ。北海道の秋ならケモノも渓流魚も獲れる。
海外の獲物は「殺し」で自国の獲物は「食料」なのか? ということに関しては、「これだ!」という自分でも納得できる解答は持っていない。狩猟免許の範囲が日本国内なので、国境の内側の生き物は「同じ地平でともに生きる炭素化合物同士」ということになり、混ざり合う(殺して食べるもしくは食べられる)ことが許されるかな、という程度である。
というわけで北海道を心の裏山と考えて、無銭旅行をしてみることにした。
秋から冬を越えて春まで……は長過ぎる。正月くらい家にいたほうがいいかなという自分でもよくわからない基準(というか家族への忖度)で、北海道の狩猟解禁日一〇月一日から年末くらいまでの三ヶ月を無銭徒歩旅行期間とした。
飛行機のチケットだけは購入しておき、財布を持たずに家を出発。飛行機の移動はなかったことにして、稚内を裏山だと信じ込み歩きはじめる。三ヶ月あれば、北海道を縦断して、そのまま知床方面に横断もできるかと予想した。
とりあえず稚内から襟裳岬まで(縦断分)の5万分の1地形図を購入したら、三〇枚くらいになってしまった。里に出ないように山の中を歩くと一日の移動距離は一〇キロから一五キロがせいぜいだと考えて、行程を区切っていくと襟裳岬までで、たっぷり三ヶ月になっていた。実際には林道を歩くことが多いと予想されるので、一日に二〇キロ以上歩ける日もあるだろう。それでもオジさんの徒歩旅行なので欲張ることなく、まずは北海道縦断を目標にした。
鹿を撃ち、ニジマスを釣って旅するにしろ、米は必要である。三ヶ月分の米を持つことは不可能だ。ということで経路の途中にある避難小屋に食料を少しデポさせてもらうことにした。
小屋を管理する自治体や山岳会に連絡して、デポの許可をもらい、家でデポを作ってレンタカーを借り、フェリーで北海道へ渡って、三つの小屋に置いてきた。これで約一〇万円の出費。それに休暇中は会社が私の給料から払っている住民税と健康保険料を私が払わなくてはならないので三六万円。家の生活費三ヶ月分が三〇万円強。飛行機のチケットなどもろもろでトータル一〇〇万円の出費である。
無銭旅行は金がかかる。
だが、とりあえずあとはもう出発するだけになった。
とはいえ、いまこのときもまだ心が揺れ動いている。こんなことになんの意味があるのか。でも、このまま何もしないで歳をとりたくない。でも、めんどくさいし、辛そうだし、寒そうだし、夜は長そうだし……。
前号で報告した小蕗の古民家が手に入ることになったのは、会社に休暇の申請を出した後だった。正直なところ、いまいちばん興味があるのはあの古民家の改装で、北海道なんかでのんびりしている場合ではない気がする(たぶんのんびりではなく、重い荷物を毒づきながらだろうしなあ……)。
この旅を終えて、また普段の生活に戻った時、旅してよかったと私は思うのだろうか。たぶん思うだろう。だが、それも生きていたらの話である。
服部が多少なり本誌を身体表現のモチベーションにしてくれたのと同じく、本誌も多少なり、彼が“本”を作り続けることのモチベーションとなった。アウトドアファッション誌として生まれ、付録が主役で文字がオマケのような“商品”作りに嫌気がさし(今ではそんな商品が業界の看板を背負っているけれど)、本誌が転向を図ったときに必然として出会った。本誌のモチベーションとなった彼の自力思想は今後、小蕗の古民家で俄然輝きを増すことだろう。写真は、財布を持たない服部に餞別としておごったナチュラルコーラとともに。
旅の全容を表すあまりの量の地形図に、編集部は結局その道のりを捉えきれなかった。今はどこを歩いているのか……。