夏も終わり、民宿状態が続いた我が家も静かになった。メキシコに行っていた3ヶ月間、荒れ放題となっていた畑で草の勢いに負けた野菜たちはほとんど死滅していたが、今年は台風の直撃があまりなかったのでバナナは普段よりも豊作だった。島バナナは小ぶりだが、適度な酸味があって美味い。
すっかりドクダミ畑に変貌した畑を再び鍬で耕して、地中にびっしり生えた根を取り除く。ドクダミは笹と同じく、土の中に少しでも根が残っているとあっという間に拡がる増殖力の強い植物だ。そうやって一人秋の気配を感じながら色々と空想し、「平和だな〜」と10年1日の如く、しみじみと自身のペースで手を動かすのも悪くない。夏は蚊が多く、長袖長ズボンの完全防備でないと畑作業はできないが、秋は暑さも和らぎ、赤とんぼの大群が蚊をバリバリと食いまくってくれるお陰で、Tシャツ1枚で過ごせるから快適だ。
ついでに前から気になっていた畑と家の周りに覆い被さる木の剪定をする。木に登ってチェーンソーを使う作業なので、地下足袋とハーネス、工事用のヘルメットを被って挑む。去年は風呂場の上に覆い被さっていた木を切り倒したが、蔓が絡まって上手く倒れず、外にあるコンクリの流し台を派手にぶち壊してしまった。それでも東京から島に引っ越してきた当初は電動工具やチェーンソーなどが手元になく、すべては基本的に手作業。そんな見様見真似でやっていた頃と比べれば手慣れた感じになってきた。
僕の集落では高齢化が進み、病気などで島を離れた人から好きなもの使ってと農機具や大工道具などをもらう機会が増えた。そして我が家の納屋には主がいなくなった鍬や鎌が年々増えていく。我が家の下に住んでいた、よく一緒に農作業をしていたFおばあちゃんも亡くなってから久しい。
「植えたオクラの苗が枯れてしまう」と大騒ぎでうちに駆け込んできたFおばあちゃんと、山中にある離れの畑に軽トラで水いっぱいの樽を運んだ記憶が蘇る。彼女が喋る「島ことば」がよく分からない僕は適当に相槌を打っていることが多かったけど、日本昔ばなしに出てくるような、腰が曲がった小さなおばあちゃんと過ごす緩やかな時間は心地よかった。彼女がくれた里芋のこぼれ芋から生えてきた大きな緑色の葉っぱは、忘れ形見として畑のオブジェと化している。
それに、集落の浜にある無料の温泉で会っては、いつも密かに「金玉の袋がとても大きいな」と思っていたおじいさんも亡くなった。彼がくれた山芋も数年前から畑に植えたままにしている。島の年寄りは耕運機などの機械を使わず、畑に雑草よけのビニールも被せることなく、昔ながらの手作業で畑をしているのが良い。最近は、時折祭りの時期が来ると山羊を一緒に屠殺していたおじいさんが亡くなった。
先日、大腿骨が折れて東京に入院していた近所に身寄りのないUおばあちゃんが退院することになり、迎えにいくはずだった連れ合いがコロナに罹ったため、僕が急遽東京まで飛行機で彼女を迎えに行った。夫に先立たれたUおばあちゃんは長年1人でダウン症の娘Kちゃんの面倒を見ていたが、何かあったらKちゃんの面倒を見ると約束していたはずの島の施設は彼女の世話を放棄し、内地の施設に送ってしまった。そしてしばらくして、Kちゃんは移送先の施設で不幸にも亡くなってしまった。
限界集落とはよく名付けたもので、僕たちがここに越してから14年で色々なものが持続できなくなり、消えていくことになった。
秋になり、落ち着いた水温と大潮が重なって、海へ行くと水中の雰囲気がいつもと違って騒がしい。案の定、10kgぐらいのカンパチが回ってきた。至近距離から思いっきり頭へ銛を打ち込むと、カンパチは大きく頭を振って丈夫なカーボンシャフトの先端をブチ折り、頭にシャフトを串刺にしたまま逃げてしまった。息を整え、深場に逃げるカンパチを追いかけて素手での捕獲を試みるも失敗。しばらくすると少し小ぶりのメスと思われる個体が泳いできて、身を寄せ合うように一緒に逃げていく様子を目にし、可哀想なことをしてしまったなと思った。
亀山 亮
かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine : Intifada』『Re : WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。写真集『山熊田 YAMAKUMATA』が2018年2月、『戦争・記憶』(青土社)が2021年8月に刊行された。
湾状となっているこの場所は集落の港として以前は使われ、戦時中は人間魚雷「回転」の発射基地として使われていた。