3月末、コロナの影響がこれからメキシコでも拡大することが必至な情勢となって、取材予定の1カ月を残してギリギリまで取材を継続するか悩んでいた。結局、予約している航空会社が倒産してしまう可能性やメキシコ国内の移動さえも困難になると考え、急遽日本に引き上げることに決めた。
いつものように空席があるときだけ搭乗可能で運が悪いと空港に何日も通わなくてはいけないという面倒くさい激安チケットではなく、今回は何故か気が変わって値段が倍もする正規料金で買っていたので、コロナ禍で毎日の便が半分になり混雑してはいたものの、2日ほど粘ると手数料もかからずになんとか飛行機に乗れることになった。
メキシコシティの空港でチェックインを済ませ、搭乗前に一息ついて現地の仲間に別れの挨拶をメールする。
「お前が撮影していたS村が攻撃されたぞ。村人が言うには15人が殺されたようだ。たった今、取材して帰ってきたばかりだ」
仲間の記者からこんな旨の返信が来た。
現地ではコロナは全く彼らに影響を及ぼすことなく連綿と殺し合いが続いていた。撮影で何度か滞在していたS村は対立する2つのカルテルが衝突する前線でいつも緊張状態だったが、険しい山々に囲まれた村が簡単に攻撃されるとは思っていなかった。
日本に戻り、仲間の記者たちがSNSにアップした写真を見ると、自分が数日前まで寝起きしていた見覚えのある建物が銃撃で蜂の巣になっていた。以前の攻撃で山(敵側)に面したトイレの窓枠は吹っ飛び、中のタイルもボロボロだったが、ビニールシートをかけてみんなで使っていた。今回の激しい攻撃では瓦礫がトイレ全体を埋めていた。
写真を細かく見ていくと、建物の入り口にはゴミ箱として使っていた見覚えのある小さなバケツが転がり、僕が寝ていた部屋は壁一面に銃撃の跡が残り、脱ぎ捨てられたブーツや荷物が散乱していた。
「彼らも怖いから遠くからしか撃ってこないよ」と、皆の意識も村の外の山側から徐々に攻撃してくるという感覚だったはずが、突然の不意打ちで周りを取り囲まれ、退路を断たれて絶望的な状況になっただろう。夕方から始まった2日間の攻撃で分厚いコンクリートの壁は、口径の大きい狙撃銃の銃撃でバラバラになり穴が空いていた。
殺された遺体の写真を見るが損傷がひどくて誰だかは判別できない。何度も繰り返し写真を見ていると、腹の底から吐き気と恐怖がグッと押し上げてくる。
カルテルのボスは僕と同年輩だが、配下のメンバーはみんな若くて、僕が彼らの父親でもおかしくないあどけなさが残る少年達も多い。多くのメンバーは、S村にくる前は都市でカルテルの殺し屋として生きてきた。
写真を撮る人間として自分はそこにいるべきではなかったのかという後悔の念と、自分も現場にいたら巻き込まれていたのではという二律背反した気持ちになる。最後に僕がS村に滞在していた時も軍のヘリが村の上空を低空で通り過ぎ、通信が数日遮断され、次に取材予定だった近隣の村が攻撃されて何人か殺された。カルテルと一緒に村を守る村のリーダー役Kは、興奮気味に今度はこの村にやってくるのではと恐れていた。
「自分が生まれたこの土地を追い出されたらどこに住めというのだ。死ぬまで戦う」
Kたちと車で移動中、正面の山の斜面に「あそこに敵がいる!」と皆で車から転げ落ちるように外へ飛び出したが、Kの息子の早とちりで木が不自然に揺れていただけだった。その時一緒に乗っていた見覚えのあるボロボロのトラックは、メキシコ軍に鹵獲されて牽引されていた動画がSNSにアップされていた。
彼ら親子は生き延びることができたのだろうか──。
その後しばらくして、村の近くの谷筋に打ち捨てられた処刑された男たちの写真を見た。いつも見ていた乾いた土埃の風景の中に、手と足を背中に回され海老反りになって縛られ、黒く変色し腐敗して膨らんだ遺体を見ながら、自分がそうなっていてもおかしくなかったのだなと思う。
それぞれの人生に家族や生活が当たり前に存在しているのに、無機質な一コマの光景として死が日常となってそれらは語られる。
条件反射の暴力、そしてまた暴力。
彼らは圧倒的な虚無を演目通りに役をこなし、死が訪れる最期まで途中退場はできない。憎悪の連鎖の中で究極の刹那の中を生き続ける彼らに共通しているのは、殺す側も殺される側もが若くて貧しい出自ということだ。
亀山 亮
かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を2018年2月に刊行。
ヘロインの値段が暴落する数年前までこの村ではケシ栽培を生業としていた。