【vol.46】戦争の記憶

メキシコから日本へ帰ってくると島にいる連れ合いからまた雨漏りが発生したという報せを受けて、少し暗い気持ちになって急いで島に戻った。調べてみると屋根をぶち抜いて取り付けた薪ストーブの煙突の隙間から漏れていただけなので、傷は浅くて一安心。荒れに荒れた畑の草刈りや好物のニンニクの収穫、そして夏野菜の植え付けに魚突きと、田舎は何気に忙しい。八丈の馴れ親しんだ海に滑り込むと気持ちがホッとする。これは久しぶりだけど、どこか久しぶりじゃない昔の親しい仲間にあった心持ちと同じかもしれない。

そして集落の人が連続で2人亡くなった。人が亡くなると集落総出で葬式の用意を手伝うのがここでの習慣だ。なぜか葬式の日になると必ず暴風雨になって、風景がモノトーンに染まり寂寥感が一層と増す。葬式に参列するのは年寄りが圧倒的に多くて、集落のマンパワーは僕が引っ越した10年前よりも明らかにがっくりと落ちている。あともう10年経ったら、おそらく人口は半分にも満たなくなってしまうだろう。

お通夜で普段あんまり喋らない近所のおじいちゃんが、戦争中のことを突然僕に話したことが印象深かった。

戦争末期、米軍が本土に上陸する前、島の人たちの大部分は本土に疎開したが、おじいちゃんの家族は疎開せずに島に残った。当時13、4歳だったおじいちゃんは日本軍に強制的に現地召集されて、洞窟に隠してある敵の軍艦へ向けて自爆する特攻艇を海へ運び出す仕事をやらされた。

「船は青く塗られてさ、薄いベニヤ板でできていてこれで戦争するのかと思ったよ」

「内地からきた軍の偉い人たち威張っていて嫌だったよ。自分と同世代だった内地から来た特攻隊員は本当にかわいそうだった」

「今みたいに簡単に情報が手に入るわけではなかった。みんないつ死ぬかもわからないので自暴自棄になって、荒らくれて頭がおかしくなっていたな」

「自分のおじいちゃんに天皇さえいなかったらこんな事にならなかったのにと言ったら、打ち首だーとものすごい剣幕で怒られてね。もう大変だった」

「食べ物だけは良かった。優先的に島で飼われている牛から搾乳した牛乳や缶詰がまわってきてね。腹いっぱい食えたよ」

話しているうちに徐々に記憶がクリアになってきたおじいちゃんの眼前には、当時の様子がくっきりと見えているようで、現在と過去は地続きにつながっていることを改めてこちらに突きつけられているようだった。

沖縄で集団自決(強制集団死)の体験者の人たちと話している時もそうだったが、昨日の晩飯を何食べたか覚えてはいないけれど、当時の体験は決して忘れることがないという。直接的で身体的な体験であればあるほど 体験は忘れたくても忘れることができずに記憶の襞に刻まれていく。

沖縄戦の激戦地・伊江島の大城さんは米軍に追い詰められて、戦闘中に逃げた先のガマ(自然にできた石灰岩の鍾乳洞)で家族や親戚とともに持ち込んだ機雷を爆発させた。母親に抱かれた大城さんは奇跡的に瓦礫に埋まりながらも母親とともに生きながらえた。大城さんが戦後だいぶ時間が経ってから当時の様子を描いた紙芝居には、米軍の艦砲射撃で集落が炎に包まれていく様子や家族が爆弾でバラバラになっていく姿が描かれている。単色で描かれた風景の中に表出する炎や血の色がハッとするほど鮮やかで凄絶だ。

爆発時の後遺症で歩くことができなくなり、晩年老人ホームにいた大城さんに最期に会いに行った時、僕の顔は忘れていても当時の様子を尋ねると声にならない嗚咽をあげながら過去を思い起こしていた姿に、あの時を起点にしか生きられず、他者とは決して共有できない、自身の死が近づいても続く激しい孤独と苦悩を感じた。

また八丈の近所のおじいちゃんの戦争の話を聞きに行きたいと思っている。

集団自決が起きた壕。慶良間諸島では米軍上陸後、日本軍、米軍双方に追い詰められた多くの住民は互いに手を掛け合い、命を絶った。 沖縄県 座間味島

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を2018年2月に刊行。