【vol.38】原発と防潮堤

水海山でゴミの最終処分の工事が開始された木々が伐採された。

古い昔の仲間Oが震災以来、石巻の小さな漁村で移動魚屋をやっているので遊びに行った。
 
彼女は夜間の写真学校時代の仲間で、働きながら上野公園のホームレスやアフリカ、パレスチナなどを撮影してきた。パレスチナでは一度同じ現場を過ごしたこともあった。僕がパレスチナの安宿で同世代の若いカメラマンたちとワイワイガヤガヤ、次の撮影地を話し合って「一緒に撮影行こうよ」と誘っても、いつも彼女は「みんなといると楽しいけど少し寂しくても一人じゃないと写真は撮れないから」と、ストイックに違う宿に泊まっていた。ひたすら前へ突き進む強い人だ。
 
今思い返せば彼女の選択は正しく、その時期に撮影した自分の写真は確かに中途半端な出来だった。
 
それからもたまに連絡を取りながら、日本に戻ると互いの近況などを話していた。
 
311で原発が爆発し、関東にいる家族にも被害が及ぶと考えて、急遽メキシコでの撮影を切り上げて日本へ戻った。余震が続く影響でピリピリとした雰囲気が漂う東京の雑踏の中、「カメ!」と呼ぶ声に振り返ると人懐こい笑顔のOがいた。書類を胸に抱えているし、通りすがりのような感じではなかったので「こんなところでなにしてんの?」と聞けば、知り合いのNGOに声をかけられて津波の緊急支援を手伝っているという。共通の知り合いもいるから一緒に事務所に行こうと誘われた。
 
彼女もカメラマンだから当然、現場にすぐにでも行きたいはずだと思い「写真を撮りに行かないの?」と聞くと、「まだわからないけどとりあえずは支援活動に携わって行こうと思う」と宙を見据えながら思いつめた感じで話す。その様子を眺めながら彼女らしいなと思った。

水海山に残された最後の大名竹(たけのこ)を採取する。

当時の僕と言えば、燃料不足のため燃費のいい中古の「新聞配達用スーパーカブプロ」を買い、野営道具とカメラ、20リットルの燃料缶を積み込んで東北へ向かう計画を立てていた。
 
あんまりにも荷台に荷物を積み込んだためナンバーも隠れてしまったが、とりあえずこれで走れるかどうかを試そうと実家前の坂をフラフラ登っていると、バイクに乗った警察官が後ろから迫ってきているのに気付いた。それにビクっとした瞬間、10mも進まないうちに荷物の重みでウイリーして転んでしまった。
 
その音に驚いて玄関口に出てきた母が警察官に向かって「息子はカメラマンでこれから被災地に行くんです」と大きな声で叫ぶと、少し太めの中年の警察官も「おお、そうなのか大丈夫か」とひっくり返った僕に同情してくれた。今に思えば津波の被害と原発の爆発によって東日本は潰れてしまうのではないかと、みんなどこか体の奥底からクレージーな感じになっていたのだと思う。
 
その後、被曝を避けるために福島を避けて山形県境へ向かったところで、雪で閉鎖されていた峠をカブでは超えることができず、仲間のライターの車に拾ってもらって東北の取材を続けた。
 
余談だが先日、実家に置いておいた用済みのスーパーカブプロは夜中に何者かに盗まれてしまった。「今回呼んだ警察官はあの時と同じ警察官で、向こうもあなたのことよく覚えていたわよ」と、盗難届を記入した同行の若い警官が漢字を全く書けなくてとても時間がかかったと愚痴りながら、母が八丈にいる僕に電話口で話した。

水海山の入り口に立つスダジイの巨木。

Oはその後被災地に入り、NGOの後方支援として働いた。NGOが去った後も石巻にある小さな入り江の村に惚れ込み、浜で魚を買い付けては年寄りが多く住む仮設住宅を中心に軽トラで行商を続けている。
 
ある時、防潮堤に反対しているとの話を彼女から聞いた。あまり多くは語らないが静かに怒っているような、決意みたいなものを感じる語り口調だった。
 
僕自身も八丈島に引っ越して、すぐに水海山という、その名の通り島の水源地にゴミの最終処分場ができることになって反対運動に参加した経緯があった。地元住民で唯一、建設に反対と公言したクサヤ屋さんは島内のいやがらせを受け、家業の売り上げが激減して苦しんでいた。元来、僕は日本の縦社会が苦手だから八丈島に住んだようなものだった。けれども皮肉なことに、必死な彼の姿に押される形でギョサンから靴に履き替えて、上京して環境庁や都庁、国会議員に「ここだけはどうか建設はやめてほしい」と内心ではなんで元凶のこいつらにへえこらしなくてはいけないんだと思いつつ、作り笑いをうかべて頭を下げて陳情に回った。
 
自分がいいと思って住んだ土地が無抵抗なまま汚染されるのがたまらなく嫌だったのと、八丈出身のパートナーは故郷が破壊されることが本当に許せないというシンプルな怒りに引っ張られての行動だった。
 
行動の結果、肉体に染み込むようにわかったことは、日本の大部分の地方では公共工事に反対する=地元住民の収入源を否定することで多くの住民の反発を喰らうこと。島での飲み会でいい感じに酔っぱらったおっさんに「カメ!! 俺たちの暮らしを否定するのか」というような感じで何度か怒鳴られて苦い思いもした。

津波に流された祖母を探す男性。(石巻)

全壊した家のかたづけをする夫婦。男性はこれからも漁師を生業として生きていくと話した。(石巻)

そして、予算が有り余る東京都は過疎の離島にはおよそ不似合いな21億円の巨大なゴミの最終処分場を水源地に作った。だから彼女の防潮堤の話を聞いた時も大変だろうなと思った。特に外部から来た人間が反対するのは地縁血縁の結びつきが強い小さな共同体ほど難しい。
 
だけどその一方で、防潮堤は海ともろに関係しているし、農村と違って漁師が多く、狩猟文化が根付いた海に生きる浜の人たちは少し違うのかなとも思った。
 
僕が出会った津波直後の浜の人たちははとても強かった。
 
彼らはユンボで瓦礫を押しのけて道を作り、津波で流されたプロパンガスを拾い集めて煮炊きをし、潮に浸かった建材を沢で洗い乾かして、燃料にしてドラム缶風呂を作った。家が流されても、船が残っていればまた生きていける。津波が来たら家族は陸へ逃がし、自分たちは船に飛び乗って沖の津波に突っ込んで船を守ったと、当たり前のように話す姿を見ては舌を巻いた。
 
彼らは漁具さえ回収できれば、何年先になるかもしれないがまた再起できると思っているようだった。豊かな海があるから自分たちは生きてこられた。先祖代々、厳しい海と向き合って命のやり取りをしてきた彼らにとって、今回の津波は一瞬にして命をもぎ取られるとてつもなく大きなものだったが、原発被害と違って何十年、何百年周期でやってくる自然のサイクルの一部として、どこかで達観して受け入れているような感じがした。それは街場の人間には持ち合わせていない、自分の肉体で生きてきたという腹の底から出てくる自信から来るものかもしれない。
 
海で生きていくために陸から海が全く見えない防潮堤などは逆に危険だ。
 
人間が自然をコントロールすることなんて絶対にできないと知っている彼らは、防潮堤建設なんて馬鹿げた発想を認めることはできないのではないかと、何処かで一縷の希望も感じていた。 (続く)

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documentary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を今年2月に刊行。