【vol.39】原発と防潮堤

震災以来はじめて見た東北の被災地の風景はコンクリートの塊で出来た街に変貌していた。復興事業で多くのユンボが蠢き、人気のない更地になった海岸には大型トラックが砂埃をあげて走る。 ユンボとトラックがある光景だけは震災時とまったく変わりがない。

瓦礫が取り除かれた海岸線には、パレスチナの分離壁よろしく真っ白いコンクリートの壁が総距離400㎞、総工費一兆円をかけた巨大防潮堤の建設が始まっていた。海岸線に立つとまるで刑務所の高い塀に取り囲まれたようにぽっかりと空だけが口を開け、眼前にあるはずの海はまるっきり見えない。

Oが住んでいる集落は北上川から津波が押し寄せて多くの犠牲者を出した大川小学校からほど近い山間を越えた海沿いにあった。海岸線から奥深い山道に入ったと思ったらすぐに小さな浜が現れる。リアス式海岸の特有の入り組んだ地形は津波の大きさを何倍も増長させる。震災当時、車で山間部を走っていると大量の瓦礫が突然視界に飛び込んできた。海の存在を感じない深い谷の奥まで津波がやってきたのかと何度も驚いた。

Oに案内してもらい復興に成功したと言われる女川の町を行くと、かさ上げされて綺麗に整備された街並みにびっくりする。デジャブ感がある、日本全国どこにでもあるような均一化された町に、そこで生きている人間の生活感をあまり感じることができなかった。

津波が来た時に多くの住民が逃げた高台にある病院へ行く。目の前には、建物が全くない綺麗に整地された平らな風景が海まで広がっていた。病院のフェンスに引っかかって垂れ下がった車をここで撮影したなとふと思いだして下を見ると、工事用バリケードで囲まれた道路に鎮魂の花壇と書かれた札と、いくつかの小さな碑がひっそりと立てられていた。工事車両の音が響く人気のない風景の中で、多くの人の命が津波で流されたということを唯一それが証明しているように感じた。

[岩手県大船渡市]
新沼春雄(87)─── 頼りにしていた息子(61)と孫(30)が津波に流されて行方不明になった。彼の家はチリ津波の時に壊され、再建した家は再び今回の津波で破壊された。

Oが住んでいる小さな集落は古くからの硯の産地で、歴史ある民俗芸能が未だに残っている。防潮堤が地域住民のコンセンサスなきまま建設されることに疑問を感じたOは、住民がこれについて本当のところどう思っているのか、集落を一つ一つ回ってアンケートを集めていた。わかったことは、ほとんどの住民が心情的に建設に違和感あるいは反対していることだった。同時に、復興支援は国主導で行っているため、防潮堤に異を唱えることが他の高台移転や港整備などの遅れに繋がってしまうのではと危惧していた。津波の被害によって過疎化に拍車がかかり、集落を離れる選択をした住民も多い中、残された住民は厳しい選択を強いられていた。

Oが、夏になるとみんなが泳ぎに出かける綺麗な砂浜があると言うので行ってみると、防潮堤の工事のためにすでに封鎖されていた。集落にある小さな神社の入り口に2人のおじいさんがぽつんと座っていて、何を話すでもなく静かに、コンクリートの壁で塞がれていく浜を名残惜しそうに見続けていた。

巨大なコンクリートの壁が海岸線を塞いでいく様は、強烈な違和感となって自然の摂理に反していると本能に訴えかけてくる。浜に生きる人々は海とともに暮らし、日々、海とバランスをとりながら生きてきた。そして、海は命の糧を与えてくれると同時に、ひとたびバランスを崩せばたくさんの命をも奪っていくことも知っていた。

津波で家屋が流され、土台しか残っていない集落の中をゆっくりと杖をつきながら歩いていくおじいさんたちを見ていると、津波で家族の生命、生活基盤が破壊された後も、「復興」という名の下で何百年と積み重ねられてきた生活文化、最後に残された精神的な支柱さえもがバッサリと切り捨てられていくように感じた。「絆」「がんばろう日本」とメディアが喧伝するのとは裏腹に、人々の絆は分断されていく。

捕鯨の町、牡鹿半島の鮎川に向かった。浜の小さな仮設商店で、おばさんが作ったクジラの煮付けをご馳走になりながら震災当時の話や建設中の防潮堤の話を聞く。その近くをアートで「被災地の再生」を謳った大規模なプロジェクト、リボーン・アートフェスティバルを見に来た集団がぞろぞろと歩いていく。互いに交わることが必然のような狭い空間に居ながら、両者が交わることのない雰囲気がなんともうら寂しい。彼らは津波で多くの人が死んだ場所へ、有名なアーティストが綺麗にパッケージした「被災地の再生」だけを見たいだけのかもしれない。

[宮城県女川町]
津波がきた時に多くの人たちが避難した病院の下に建立されていた鎮魂の花壇と碑。

東京中心の価値基準で物事が進められ、物心ともに搾取されていく東北を取り巻く構造は今も昔も何十年、何百年と変わらない。それは東京で必要としている電力を、原発は安全安心だからといって福島に押し付けてきた構図と重なる。

Oが恐れ多くてあんまり近づかないという岬の神社へ行ってみると、崖の下にはまだ片付けられていない大量の瓦礫が打ち上げられていた。浜に降りて瓦礫を丹念に見ていると、人骨かなと一瞬どきっとしたが、入れ歯が落ちていた。持ち主はどうしたのかなとひとりごちる。

外洋に面した海は時化ていた。風が吹く中、磯の岩に砕ける白い波頭をしばらく見ていると、ようやく自分の知っていた東北に戻ってきたんだなと実感し、同時に寂寞としてモヤモヤとした解せない気持ちになった。

Oからしばらくして一通のメールがきた。

「どこでも目の前の現実は厳しいものばかりのように思うけど、同じ思いでいる人や理解してくれている人がいるって、それだけで希望がつながるみたい」

[宮城県女川町]
鈴木忠一郎(63)息子 克彦(32)
右端・息子の妻 紀子(26)左端・娘 千明(25)
─── 紀子さんの母親は東松山市で行方不明。漁業を営む鈴木さん一家は津波によって家だけではなく、生活再建に必要な船や漁具、貝の養殖施設を流されてしまった。

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documentary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を今年2月に刊行。