【vol.55】ある写真家の死

先日、知り合いの写真家の鬼海弘雄さんが75歳で死んだ。親と子ほど歳は離れていたけど、なぜか気が合う不思議な関係だった。「もう死ぬ用意をしてるんだよ」と癌に罹ったと冗談めかして電話で話した時にもう長くないんだなと思った。「亀山、海に潜ってるか? 黒潮に流されるなよー、魚ばかり突いてないで写真も撮れよ」と嬉しそうに時折思い出したように電話がかかってくる。

鬼海さんは山形県出身で6×6という正方形のフィルムカメラを使い、ポートレートを浅草で半世紀近くも撮ってきた。1日に1人か2人、これはという人物を見つけて声をかけ、浅草寺の境内にある朱色の無地の壁をバックに撮影する。

職歴も多彩で若いころはトラック運転手やマグロ漁船、期間工をこなしながらインドやトルコに長期滞在し、長いスパンで撮影をしていた。「金にならない仕事」と鬼海さんはよく話していたが、彼の写真は国内外で高く評価されていた。

誰にも真似できない鬼海さんの写真には春を売るお姉さん、路上生活者、職人、職業不詳の様々な男女の個性が匂い立つ。写っているのは他者だが、写真を見ていると鬼海さん自身がそのまま投影され、人間への優しい眼差しが写真に閉じ込められているようだ。

写真を撮って発表する行為は、突き詰めていけば自分自身のエゴの結晶だと思う。自分が死んだ後も写真は残るけれど、多くの場合は本人が死んだら押し入れの隅に追いやられて最後はゴミになるパターンが多い。

押せば誰でも写すことができるカメラは、絵画や彫刻などとは違って表現として自分の色を出すのが難しい。それで食べていけるかは別の話だけれど、カメラが1つあって名刺に写真家と書けばその瞬間から写真家と宣言すればいい。資格も何もいらない、誰でも簡単になれる開かれた職業の1つだと思う。

ただ、写真が開発された頃に魂が盗られると人々が恐れたように、相手の魂を居合い抜きでコピーする。こんな写真が成立する瞬間というのは、写真を通して自身の生き様や世界と自分の関係の有り様が投写できた時なのだと思う。

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亡くなる前に鬼海さんは「最近の浅草は観光客ばかり。みんな顔がのっぺりして1日いても撮りたいと思うような人がいなくなったよ。もう最後に写真集を出したらおしまい」と言っていた。均一化した社会になって、街全体が無味乾燥になった。

鬼海さんが八丈島にきた時、当時アフリカの撮影にケリがついて〝写真はもういいかな〟とペシミスティックな気分になり、残りの人生どうすっかな……という感じで「写真を撮っても疲弊するだけで面倒になってきたんですよね」と言うと「そうだよな、写真って面倒くさいよな」と人懐こい顔で答えた。彼と連れ合いが働いている精神障害のグループホームへ一緒に遊びに行った時、統合失調症の元漁師Mちゃんとすーっと空気のように馴染んで話している姿を見て、鬼海さんは自分自身と撮影した写真が表裏一体で綺麗に重なっている稀有な人なのだと思った。

鬼海さんの写真に写る僅か数十年前の日本人と今の日本人の顔を見比べると、同じ国に住んでいる人間とは思えないほど違う。現代社会が作り出した画一的な豊かさのイメージが無意識に皆に刷り込まれているのだと思う、構造改革、市町村合併で経済効率だけを求め、大量消費を続ける東京などの大都市には富と権力が集中し、多様性が破壊された地方の鄙の地は疲弊した。収奪を繰り返すことでしか成長できないグローバリゼーションの行き詰まりによって、政治は人々を分断し、憎悪や差別が社会に蔓延して人間の存在を記号化してしまった。

この数年でスマートフォンの画面に顔を埋めるように歩く群れが目立つようになった。もしスマホをなくしたら自分がいた場所にさえ戻れない。判断と回答、そして行動が小さな画面に集約されてしまう。自分の自由意志で選択しているようでいて、実際は自分が知らぬ間にデジタル世界に管理されている。そして飽和的な発展は世界の周縁を徐々に蝕んでいく。

「写真家の私は、ただただ、人間は自分たちが思っているより意味のある存在であるはずだと思ってカメラを持ってきた」と鬼海さんは僕の山熊田の写真集の評に書いてくれた。

土の匂いを感じる懐かしい人にまた何処かで会いたい。

潮の花

亀山 亮

かめやまりょう◎1976年生まれ。パレスチナの写真で2003年さがみはら写真新人賞、コニカフォトプレミオ特別賞。著書に『Palestine:Intifada』『Re:WAR』『Documen tary写真』『アフリカ 忘れ去られた戦争』などがある。13年『AFRIKA WAR JOURNAL』で第32回土門拳賞を受賞。新作写真集『山熊田 YAMAKUMATA』を2018年2月に刊行。