【vol.47】服部文祥が現生人類の新たな生き方を模索する ー限界集落の最奥でー

生きるとはお金を稼ぐことではない社会システムが強いる消費から抜け出す時がきた

限界集落の最奥でぽつんと佇む古民家。10年ほど前の登山中に目にして以来ずっと気になっていた。地元で古民家再生事業をおこなう方と知り合う縁があり、変人と思われるのを覚悟で思い切って聞いてみた。「小蕗集落の奥にある古民家が気になっているんですけど……」

文/服部文祥 写真/亀田正人


 

永い眠りから目覚めた古民家の鼓動

山奥で廃屋寸前だった古民家が、少しずつ息を吹き返していくのがわかる。水、火、明かりを自給できるので、社会のシステムから完全に離れた時間が流れている。

東京に近い横浜の一角で、ニワトリを飼い、ミツバチを飼い(現在は死滅)、家庭菜園をちょこちょこやって、家をできるだけ自分で修繕し、薪ストーブだけで暖をとる生活をしてきた。フリークライミングからサバイバル登山を経て、自分の力で世界に対峙することこそが本来は生きるということであり、生き物としての喜びの本質がそこにあると感じたからだ。

「首都圏近郊でサラリーマンをしながら、できるだけ自力でというところに意味があると思う」と評価する人もいる。

田舎に引っ込めば自給はできるが、都会でやっているから訴えるものがある、という意味である。だがこれはふたつの意味で少し違う。まず、田舎に引っ込めば自給自足の生活ができるかというと、決してそうではない。実践している人もいるが、多くは田舎であっても都会的な生活を求めているのが現実である。環境が自然に近いだけで、生活は現代文明的であることがほとんどだ。ライフラインが社会システムにほぼ絡めとられているので、お金を稼がないと生活が循環しないのである。「農家では食べていけない」という矛盾した表現はそこに元凶がある。

社会システムに頼り切るのがいやなので、横浜の家でも水源は確保してあるし、煮炊きは薪ストーブで何とかできるようになっている。だが、それは「避難生活」であり、通常の生活ではない。庭に井戸を掘って、かまど小屋を作り、ソーラー発電システムを導入して、お風呂は銭湯に行くというスタイルにすればだいぶすっきりする。だが、そんな生活が可能だとしても、それは周囲の人々が化石燃料をエネルギーの中心にした生活をしているからである。

エコだ、ロハスだ、自然保護だとはいっても、日本の一億2000万人を自然エネルギーだけで養っていくことはできない。自然エネルギーだけでは循環できないほどに人類と家畜は大繁殖しているからだ。この意味で、現世人類はたまたま地中に生成されていた化石燃料という貯金を切り崩して生きている穀潰しである。

水もガスも電気も居住スペースもすべて、お金と交換で手に入れる時代だ。かつてそこいらに落ちているものは自由に拾えたが、今ではほぼすべてに値段がつく。生きるとは代謝と繁殖をすることではなく、お金を稼いで使うことなのである。

それを疑うことなく私も生きてきた。だが、サバイバル登山でお金をまったく使わない日々を過ごして、生きることとお金を稼ぐこととは微妙に筋が違うと感じはじめた。日本国憲法には「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と明記されているが、その勤労が賃金労働でなくてはならないとは書いていない。生きるために活動することがそもそもの「働く」ことであるはずだ。

鹿を殺すことでも、生きるとは何かを考えてきた。いまだ考えはまとまらないが、ここでも生きるとはお金を稼ぐことではないことだけはわかった。ただ、健康保険制度や家賃(もしくは固定資産税)から逃れる術はなく、それらを納めるためには、最低限の現金収入が必要になる。そして健康保険料を払うために、多くの人が不健康な時間を過ごしている。健康保険料を踏み倒せば財産を差し押さえられ、それでも払えなければ破産宣告を受けて生活保護受給対象者になり、かなり自由が制約される。

私は今年で50歳になる。これまで生きてきて、お金がかかるのは自宅の購入と、健康保険料と、子どもの高等教育(繁殖)であることがわかった。年金も高いが収入がなければ免除される。

はっきりいって、もう充分働いた(繁殖も終わろうとしている)。この先は賃金労働に縛られないで生きたい。そんな余生に必要なのは、この社会システムの網から脱して、お金を使わない生活をすることである。自給自足やパーマカルチャーといった積極的な意志や思想はいらない。ただ、この社会のシステムである消費(お金を使うこと)から離れたいだけだ。

横浜での生活(アーバンサバイバル)をそのまま極めていってほしいという希望をいまでも聞く。私も常にそれは考ているが、現状以上はハードルが一気に高くなる。私の本心は、どこかの田舎に引っ込んで、静かにカントリーサバイバルで余生を過ごしたいというものだ。

リフォーム前の古民家なら、土地ごと100万円くらいで売りに出ている。登山で山に向かうバスの中から、空き家を見ては「あの家いくらかな」とよく考えた。ヒマなときは関東周辺の山沿いに物件情報を探した。予定している登山のアプローチ沿いに空き家物件があるときは、立ち寄ってみたりもした。

実は10年ほど前に登山で通過した限界集落の最奥に気になる古民家があった。その家と山を挟んだ別の集落に100万円で売りに出ている立派な古民家があり「買う」と決めた。まず売りに出ている古民家を拠点にして、気になっている限界集落の家にも近づけるのではないかと思ったのである。遠回りで割高だが、売りに出ている古民家も魅力的だったし、その時行動を起こさなければ、年齢を重ねて、こちらの体が動かなくなるという焦りもあった。

だが、その売りに出ていた古民家には、購入を検討している先約がいた。そしてその先約が、結局その古民家を購入することになった。一旦、買うと決めた家を買えないというのは失恋に似ている。私は心にぽっかりと穴が空いたような日々を過ごした。結局私には、横浜で自分のできることを細々とやるほうが似合っているのかも知れない。

それでも、古民家の購入を検討したことで古民家再生事業を行う知り合いができた。こうなったら変人と思われようが、なにしようがかまわない。もし気持ち悪がられたら二度とその地域に近づかなければいいだけだ、と意を決して「10年前から気になっていた、限界集落奥の古民家の持ち主さんを捜してほしい」と訴えてみた。昨年末のことである。

古民家再生事業をしている知人はそのまま音信不通になったので、気味悪がって連絡をしてこないのだと思った。それでも春になってから、もう一度、催促のメールを送ってみた。

「年度末で忙しかったので動いていなかった」というメールが来て、数日後に「持ち主さんが見つかった」とつづいた。「感じの良い方で、服部さんの希望がかなうんじゃないですか」とメールにはあった。

自分で自分の希望というのがよくわからなかったのでドギマギした。とても買えないような価格で話が進んでしまい、いまさらながらそういうつもりではなかったと断ったら、怒られるのではないか。私の希望を遠慮なしにいうなら、「周辺の土地全部と家を無料で譲ってください」ということになる。そんな都合のいい話などあるはずがない。

どのくらいの規模の値段なのかというのは正直わからなかった。限界集落の最寄り駅になる都心から三時間ほどの小さな街で、古民家再生事業の知人が話し合いの席を設けてくれた。私は周辺の空き家情報を数枚プリントアウトして持参した。もしとても払えない値段を言われたら、周辺で売りに出ている古民家の値段をネタにして、値下げ交渉しようという腹づもりだった。だが、そんな交渉になった時点で、もう気持ちよく住むことなどできはしない。

持ち主さんはニコニコした気持ちのよい方で「全部そちらの希望どおり自由にしてください」という以外ほとんど口にしなかった。にわかに信じがたかったので、具体的にどういうことかをさらに問いただすと、「親戚の関係もあるので断言しにくいですが、基本的にはほぼ無料で差し上げます」とのことだった。私は、不動産や土地の所有権の書類にまつわる事務手数料だけ払えばいいということらしい。

巧妙に仕組まれたサギではないかと思ったが、言い出しっぺは私なので、サギのわけはない。サギだとしたら私が私を騙していることになる。ほっぺをつねりたい気分だった。

話しているうちに、なんとなくにじんできた持ち主さんの希望は、親族たちが古民家で積み重ねてきた時間を大切にしてほしい、ということだと私は理解した。もちろん、私も更地にしてプラモデルのような家を建てるつもりはさらさらない。私が求めているのは人と山のいにしえから変わらない時空間である。

古民家を再生して、素晴らしい居住空間を作り出している家がある。私もそんな家に憧れる。だが同時に、心のどこかで本当の古民家の魅力はまったく別のところにあると思っている。その魅力とは、現代的なライフラインと繋がらずに生活が成り立つよう古民家ができているという1点である。それが古民家の最大かつ最高の魅力なのだ。正しい古民家は、実はまったく現金を使わずに生きていけるようになっている。なぜならそれは、かつて人々がほぼ現金というものを持たなかった時代に、建て、生活した場だからだ。

電気と水道とガスを引いて、車をぶんぶん乗り回さないと生活が成り立たないならそれは古民家風の現代家屋であって古民家ではない。そんな現代的な古民家は正直格好いいが、そこは私の進む道ではない。

限界集落の奥に佇むその家は、最高の水源をもち、もちろん薪は拾い放題、猟期になれば玄関から裸銃を持って出猟も可能、柵で守れば畑も耕し放題。携帯電話の電波は届かず、電話を引く予定もいまのところはない。電柱は近くまで来ているが、電力はソーラーで賄う予定だ。

その限界集落の奥地は、古くは「小蕗」という俗称があったと聞く。現在その地名は歴史に埋もれて消えてしまった。小蕗の古民家で現金をまったく使わない生活をするのが私の夢である。経済を中心に動く社会システムに参加することは、私が選んだわけでも頼んだわけでもない。お金を使わない静かな生活にむけて、ゆっくり近づいていくつもりである。

山の斜面に建つ養蚕のための古民家

家屋は養蚕を第一の目的とされており人の居住性は二の次。それゆえ天井がやや低い。傾斜を石垣で殺した平地に母屋は幅六間奥行き二間半と小さい。それが潰れなかった理由だろう。

湿気を吸って波打つ畳、東の間に3台並んだベッド、破れた障子。老齢の方が暮らしたのだろうか。25年ほど時間が止まっているようだ。

昭和の懐かしいニオイが満ち、平成がすっぽりと抜け落ちている。住人は林業に従事していたようである。

湿気を吸って波打つ畳、東の間に3台並んだベッド、破れた障子。老齢の方が暮らしたのだろうか。25年ほど時間が止まっているようだ。

茅葺き屋根に瓦風のトタンをかぶせている。茅葺きは経年劣化で崩れはじめ、知り合いの茅葺き職人に相談したら、葺き替え500万円コースとのこと。いぶせば崩壊は収まるらしい。

個人で処理できないゴミを回収してもらう

道具と古い建具、古い家具は残し、それ以外はいったんすべて捨てることにした。天然繊維の布団も残す。木製のものは薪になるが、電気製品やプラスチックなどの無機物は厄介である。

土間は鹿の侵入を許していて糞だらけ。畳は拭いても拭いても雑巾が真っ黒。台所はネズミのパーティのあと。数十匹のカマドウマが飛び跳ねていく。

可燃物はドラム缶に穴を開けた焼却炉で燃やす。かつて生活道具は、燃えるか土に還るものだけだった。いつの間にか世界はガラクタの中に横たわっている。

個人では処理できないものを廃品回収業者に頼んで持って行ってもらう。積み放題6万円コースという触れ込みだが、なんやかんやで11万円だった。

家の周りに生えている樹を切り倒して建てた家

このアルミサッシは将来お払い箱の予定だが、とりあえず割れていたガラス部分に合板をはめ込んだ。これで鹿が土間に入り込んで糞を残していくこともなくなる。

このストーブも当面の仮設置。土間は三和土からやり直し、かまどを導入する予定。かまどは循環エネルギーを効率よく利用できるすばらしい発明である。

水源は考えうる最高質だが、長いホースがまだ届かないので、沢の途中から仮に引く。仮の水道がすぐに設置できた。急に生活の質が上がる。

崩れ落ちてくる茅をよしずで仮に受ける。これで安定してくれたら2階にはシンプルな書斎を作る予定。